激しく雨降り稲光が一帯を白く照らす金曜の夜、わたしは自室で一人映画を観た。
セットしたDVDは『スイス・アーミー・マン』
登場人物は二人。
うち一人は死体。
漫才で言うところのボケ役を死体が担って、死体がコミカルに描かれる。
無人島を舞台にこの死体が万能の力を発揮しサバイバルに資する役割を果たし相方の携帯に写る女性に恋までする。
なにもかもが奇想天外な設定であるが、死体というアングルを通じるからだろう、観ていて何か解き放たれたような感覚になっていく。
そして、解き放たれた地点からみる生はより一層輝かしい。
その昔、わたしが上京したばかりの頃のこと。
藤原新也さんの『東京漂流』を読み、そのなかにあった『ニンゲンは犬に食われるほど自由だ』という一枚の写真に強烈な清々しさを覚えたことがあった。
『スイス・アーミー・マン』が発するメッセージは、藤原新也さんのその写真に凝縮された何かに通じるものがある。
死という地点からみれば一切が自由。
しがらみやしきたりなど、生きることにまつわる面倒なあれやこれやは社会の便宜に過ぎず、死という絶対性で照らせば、たちまち神通力が失われ、ひれ伏すにも値しないと知ることができる。
やがて死が訪れる。
だからこそ本気になって生を謳歌できる。
一見ばかばかしく見えて実は心底からの元気を供給してくれる映画であった。