明け方、あまりにFMの喋りがつまらなくて音声をミュートにし、寂としたなかクルマを走らせる。
運転中、色々な思念が生じては去ってゆくが、今朝は何といっても、昨晩の夕食、心のスクリーンは鴨ざる蕎麦に釘付けだ。
家族で門戸厄神の夢打庵を訪れた。
長男と私は大盛りを頼み、結構な量に驚いたのだが、まだこの倍は喉を通ります、大歓迎です、また来て下さいという美味しさであった。
こんがり焼き目ある鴨肉は果てしないほど香ばしく、歯応えあって艶やかな蕎麦との相性抜群。
その取り合わせは長く我らの語り草となることだろう。
我が家の蕎麦の王位が前王者から夢打庵に入れ替わる夜となった。
横断歩道で新聞配達のおばさんの自転車が過ぎるのを待って、駐車場への道を左折する。
前に後ろにうずたかく新聞を積み込みわっせわっせと振り子のように左右カラダを揺らせペダル漕ぐおばさんを今度は右手に見つつ追い越してゆく。
今朝は寒さぶり返し、厳しい程の冷え込みだ。
毎朝火を起こし足を温めさすりながら開店の支度する商店街の魚屋のおじいさんのことが浮かぶ。
せっかく暖かくなったと思ったらこの寒さである。
足がじんじんする朝に違いない。
先日、遠方のド派手な客人から散々聞かされたご高説について考えてみる。
脱サラして後、うなるほどお金を儲け、モテモテの人生だという。
途中までは起伏あるエピソードに富み面白い話であった。
しかし、話も一段落した後、教訓めいた助言指導という名のご高説が始まったのであった。
確かに世の中には有難い話というものも存在する。
気の遠くなるほどの試行錯誤の結果、鍵を握る叡知が導き出され、あらゆる実践の場を通しその有用さを確固築き上げてきたような方法論などはお値打ちものに違いない。
教えの通りすれば神々のおぼえめでたくご利益に与ることができる。
だがそんなのは一部に過ぎず、めったなことで赤の他人の受益のために開陳されるものではない。
ほとんど大半のご高説は、せいぜいが後付けの薄っぺらな結果論のようなものに過ぎず、おめでたくそれを真似たところで、アホが見るブタのケツとなるだけの話である。
要は、たまたま星の巡りと天与のものと居合わせた時と場所が良かったのですねという話に、何やらそれらしい筋と因果をまぶして聞かせているだけのことだ。
よくよく耳を澄ませば、自らの成功を御旗に掲げるご高説は、言ってることとやってることが全然違うではないかという欺瞞と矛盾撞着だらけであり、ツッコミどころ満載の怪しい代物、ああ、面白かったとなれば十分で再現性を期待し試してみるなどナイーブにも程がある。
カラオケに付き合ってヨイショ、ホラヨと手拍子打つ程度が健全な対応だろう。
御仁は、周囲も聞き惚れていると調子づいて、気に入った節回しを何度も熱唱するが、そのうち必ずミュートな静寂が訪れる。
そこまで待とうホトトギス。
インチキご説を真に受け飛びついて実践するとなれば、動機が浅はかあさましく不純な分だけ無様さ痛ましさが際立つことになるので注意が欠かせない。
まともな教えは十に一もない。
静かな心で、眉に唾してその人物の真贋を見極めねばならない。
そもそもが結果論でしか語れないことを音量上げ調子づいて語るべきではないだろう。
この不条理な世で、こうすれば成功する、モテモテ、ピッカピカなんて真顔で断言する人間は十中八九まともではないと心得よう。
地道真面目に生きてその途上に出合えるのなら出合えるであろうという範疇のものを物欲しさ丸出しで目指すこと自体が本末転倒のような話であり、何だかとても浅ましく下品に思える。
ましてそれを手に入れたから勝者なのだと得々語るなど、いやはややはり品がない。
知人の年少さんが「上から目線」という言葉を「上からメッセージ」と聞き間違えて使っているという。
何と本質的な聞き間違えであることだろう。
目線などよりメッセージの害の方こそ毒々しい。
私自身も「上からメッセージ」は聞き飽きた。
思慮深さが顕になるほど質素で、秘めた強さが垣間見える程に謙虚である、という方がどこにでもいて、そのような人柄の等身大の言葉だけが尊べるという気がしてならない。