KORANIKATARU

子らに語る時々日記

前線で突っ走る


巨漢の兄貴分と飲みに行くことはおろか、正宗屋で一人黙想する時間もなく、田中内科クリニックでの受診すらスキップするほどにタイトな日々が引き続いている。
しかし元気溌剌、充実した毎日だ。
休むと活性度が低減しむしろ調子が狂って苦しい結果となる。
別に苦しくとも何ともないという慣性のまま起動状態を保つ事の方がはるかに易しい。
ぶっ倒れれば田中院長が何とかしてくれるだろう。


夏休み最後の日曜日、私の帰りを待つ家族と合流しガーデンズへ向かった。
地元に住んでいながら手空きの状態がほとんどないので普段は足が向くことがない。
かつてなら遠出しないと手に入らなかった各地の名品がガーデンズでならいつでも手軽に買い求めることができる、と充実度増す一方の様子を家内から聞くだけである。
私にとっては聞きかじるだけの、遠い都の賑わう門前市みたいなものだ。

たまに仕事でここら界隈を通り過ぎ、我が街ながら何と利便に富み、各種施設が豊富に取り揃い、温和で品のある住民に囲まれ、庶民目線であっても場違いになることもなく、住まいとして理想のアメニティが実現した奇跡のような土地柄ではないかとひとり喝采を送るのであるが、一家の主である私自身は修羅場を駆け巡るばかりであり、滞在時間はセミの一生のように儚いものである。
セミにとって木が一本あればいいように、張りぼての寝床セット一式あれば事足りる。
帰って寝て目が覚めれば職場に飛び立つという暮らしがただただ続く。


久々のガーデンズで、子らに本を買い、そして「マンオブスティール」を観た。

間違いなく今までで最強のスーパーマンであろう。
力強さ、スピードが、群を抜く。
地球をぐるぐるまわり、宇宙にまで飛び立ち、カラダぶつけて地面やビルが粉々になってもびくともしない。
日頃縮こまった意識が、そのパワーに共振し、すっきりさわやか、軽やか快活になる。
もうお腹いっぱいだよ、となるくらいに見応え十分、それはもう盛りだくさんであった。

クリプトン星の様子が詳細に描かれ、父や母がどのような希望を託してカル・エルを送り出したのかが序盤に理解できる。
出自と背景が明確となると、物語にどっしり厚みが出る。
故郷は既に跡形もなくカル・エルはその名を胸に秘め、クラーク・ケントとして生きて行くことになる。
ポップなコスチュームもシックな色合いとなり、子供騙しを揶揄するようなノイズが観ている間にいささかも生じない。

家族揃って大満足であった。

次回はバットマンと共演だという。
2015年が待ち遠しい。
また家族揃ってガーデンズ詣でとなるだろう。


先日、ファルメディコ株式会社の狭間研至社長の話を聞く機会があった。

狭間社長の語りについてはこの日記でも取り上げたことがあるけれど、耳から入ってくる言葉が滞りなく脳内でビジュアル化されていくかのような聞き心地の良さと分かりやすさであり、これはもうアートの域である。

この日の話は、心地よさを超えぷるぷる震えるような感動が胸に迫ってくるような内容であった。
狭間社長がかれこれ八年越し語り続け、その語りによって道が生まれ、折々景色が移り変わりつつも、先駆者として進む後をどこへ続くのかと皆が後を追い、そしてとうとうその全貌が見えるところにまでたどり着いた。
その全行程が凝縮され、巨大な映像となって立ち昇り姿を現した、とでも言うしかない。

目先を追うのではなく、本質に根ざした在り方を問い、有るべき姿を説き続け、狭間社長が微か微か見出してきたその何かが一望のもと、その日その瞬間、眼前に現れたのであった。

いや、現れたという表現は最適ではないだろう。
数学の問題を解くように、超難問の解を狭間社長が導いた、と言った方が的確であろう。

痛快であり、爽快感すら覚える瞬間であった。

八年単位の仕事となれば壮大なものである。
単にそのテーマについて考え、コミットしたという結果ではない。
考え抜いて、コミットし抜いた、その気も遠くなるような蓄積が局面を切り開いたのである。

おそらく、狭間社長は何か見えない力によって駆動されているに違いない。
そうでなければあれほどの激務の日々を重い使命担ってニコニコと過ごせるはずがない。

この八年セットがあと少なくとも五回分はあると私は見込んでいる。
続きが楽しみである。


子らが半沢直樹が面白いというので、少しだけ観るつもりが、火がついた。
眠気吹き飛び、立て続けに全部観ることとなった。

これは実に面白い。
有意義なメッセージに富む。

倍返しだ、ですっーと溜飲下がるという点のみならず、ぐっと腹と眼に力みなぎる対峙力というのだろうか、一歩も引かず角突き合わせる闘争心がこちらにまで乗り移ってくる。

仕事していればありとあらゆる場面で膠着状態が訪れる。
面倒であったり、困難であったり、逸れて目を伏せ回避したくなるような場面が少なくない。

それに対して、向かって行け、とドラマが我々を挑発する。

壁となり覆いかぶさってくる難敵はいつだって人である。
そこで絶対に押し負けない。
押し返していくパワーがなければどうにもならない話であり、それを喚起してくれるからこそ、目が離せない。

逃げるが勝ち、という話に人はもう飽いているのだ。
何か巻き返しの潮流が生じる兆し、としてこのドラマのヒットは捉えられるべきかもしれない。