KORANIKATARU

子らに語る時々日記

やはりどうやら、ほんの一瞬のこと

実家での食事を終え家族を残し一人家路につく。
ビールにワインにとしこたま飲んで駅までの道をちょいと上機嫌、ツイスト歩行で千鳥足。

意識の陽は傾きかけるが夕闇迫るまでには至らない。
寝過ごして車内で置物化することはなさそうだ。

酔ってガードが開いたのか昔懐かしの旋律が直接届いて心を揺らす。
現在の時間に過去のありとあらゆる出来事が流れ込みはじめた。
音楽による走馬灯効果である。

四方から姿を現し続ける感慨がじんじん胸に響いて、やがては感無量。
受け身になって聴くだけでこれだけ心揺さぶってくるのだから音楽の力は凄まじい。

いつか将来老いさらばえて、身動きし難くなったときでも音楽聞けば、内面は沸き立ち活況呈するといったようなこともあるかもしれない。

だからそのように書き留めておく。
万一寝たきりとなったとしてもそのベッドの近く、音楽が絶えず流れている方がいいように思う。
流すナンバーについては用意するまでもなくiPhoneに搭載済みだ。

見かけは虚無そのものの老体も、音によって意識を触発され、一皮めくればまさに絶頂、人生全行程の感動を余すことなくビンビンに享受しているといったことになる。

だからその流れで言えば、死してなお読経頂くよりかは聴き馴染んだ音楽を流してくれる方がありがたい。
と思って、すぐに気付く。

死ねば聴覚はないので、音もリズムもへったくれもない話であって、何も聞こえず何も届かず何も感じられず、一皮めくってもどれだけめくっても、どこまでもそこには完膚なきまで死が横たわっているだけのこと。

ああ、なんてことだろう。
死ねばもろとも。
これほど魂震わせる音楽が、コトリとも音発しない無となっていく。

凍りつき、そして次に涙ぐんでしまいそうになるような死の真実を垣間見たJR車中となった。