夕食後、わたしは新聞を手に取った。
手付かずのままかなりの分量が積み上がってしまった。
普段、悠長に新聞をめくっている暇などどこにもない。
その嵩がそう明瞭に証していた。
息子らは東京で暮らし、この先、家内にも新聞に目を通す時間はないだろう。
紙面をめくるのも労苦に感じられ、めくればめくるほどもはや不要との確信が強まっていった。
と、隣に座ってiPadを眺めていた家内がほらほらとその画面にわたしを誘った。
長男からのメッセージだった。
マグロとサーモンを調達し海鮮丼を自作したといって写真を送って寄越したのだった。
男子の素人作丸出しで見映えゼロであったが本人はそこそこの出来だと自負しているのだろう。
そのギャップがかわいらしく思え夫婦で笑った。
テレビもつけず、音楽もなし。
隣り合う家内と一緒になって長男とやりとりし、そのまま子ども談義を交わす土曜の夜となった。
子育ても一段落。
明るく丈夫に育ち、場に恵まれ、兄も弟も多くの友だちを得ることができた。
この先も同様。
それぞれ頼り甲斐があってユーモアあって親バカ目線でみて魅力的。
結構好かれて一目置かれ、ますます人や機会に恵まれることだろう。
豊後水道や鳴門ではいい魚が育つ。
四方から押し寄せる海流やそこで発生する渦潮に揉まれてこその話であるが、彼らが属す場所も似たようなもの。
異種混合が彼らを鍛えその成長を促す一方、根底に横たわる同質性が海の滋養のごとく作用して彼らを護る。
その世界の同質性はかなり強固なものと言えるだろう。
集まるメンツを見渡せば育った環境も経てきたプロセスもみな似通ったもの。
そんな土壌があるから互い気持ちが通じやすく信頼感が根付き、そもそも皆に余裕があるから助け合って励まし合うことができ、寄って立つ場所がそうであるから当たり前のように強気と自尊の感情が育まれることになる。
それを幸福と呼ぶとすれば、道を踏み外すことなくいま子らは好循環のなかにあると言え、うちの女房はよくここまで頑張った、という結論が導き出されることになる。