1
仕事納め前日、2015年最後の日曜日を二男と事務所で過ごす。
宿題などすすめる二男を傍らに大掃除を始めた。
今年一年の奮闘を自ら讃えつつ書類を片付け、デスクやら窓やらを拭き、床に掃除機をかけ、トイレを洗う。
清めを独り占めするかのような時間。
掃除をすれば自身も心新たとなる。
南向きの大窓から正午の陽光がふんだんに注ぎ込み、デスクが空の青を照り返す。
光が反響しあって事務所に満ちる。
なんとも清々しい。
2
帰途、西九条の大福湯へ寄る。
混み合うスパより、深閑とした銭湯がいい。
サウナ最上段に二男が寝そべる。
部活で鍛えられその体躯はますます骨太なものとなっている。
水風呂に一緒につかって二人揃って嬌声をあげ、ほどよい広さの湯船で向かい合う。
自転車のカゴにでも入るくらいに小さかったベイビーボーイの面影をそこに重ねる。
年末年始の予定などを話し合う。
大晦日や正月が待ち遠しいようだ。
子どもにとってもこの時期の平穏は特別なものであり感慨深いもののようである。
3
自宅へとクルマを走らせる。
久々に43号線を使う。
我らにとって恒例、昭和の懐メロを流す。
言葉はどのように発生したのだろうか。
二男がつぶやく。
その起源についてひとつの仮説を紹介してみる。
最初に仲間同士で共有する音楽のようなものがあった。
未分化であった音のコードが長い時間をかけ精緻に研ぎ澄まされ、やがては言葉となった。
そして、現在進行形で言葉は人にとって不可欠なものとして深化を遂げ続けている。
音楽を持たない類人猿は絶滅し、音楽を持っていたホモ・サピエンスだけが生き残った。
二男がその様子を想像する。
いま話す言葉を逆廻しに遡っていけば、ニュアンスやイントネーションを多少変えつつも連綿とつながっていくはずで、言葉が生まれた日の前日にも人は何か話していたに違いなく、そのときの言葉が音楽だった。
嗅覚で世界を認知する動物がいるように、ホモ・サピエンスは聴覚がすごかったのかもしれない。
二男がそう言う。
二人してイメージする。
音楽が凝結しぽつりぽつりと雨が降るように言葉が生まれた。
やがて雨脚が増し、まさに恵みの雨、微細な音色を奏でる言葉があふれ始めて、そしてヒトの前に豊穣な世界が現出することになった。
そして、渠成って水至る。
ヒトはヒト同士、言葉を使って時間を超え距離を超え、通じ合うことができるようになった。
こうしてクルマのなか、二人していろいろなことが話せて、長くそれを心に留めることができるのも言葉あってこその話である。
4
夕飯の支度はすっかり整っていた。
終日自主トレに励んだという長男も帰宅し、家族四人で食卓を囲む。
家内のみやげ話が尽きない。
皆の脳裡に様々な光景が色とりどりの像を結ぶ。
女性は一日に二万語の言葉を発しないといてもたってもいられないという。
はじめに光ありき。
原始、女性は実に太陽であった。
その起源のみならず、言葉に関して果たす女性の貢献は限りなく大きいようである。