1
土曜日未明、前方のトラックの右側に白いビニール袋が吸い込まれていく。
左側からそのビニール袋が吐き出されるが、一瞬後、それが白い猫であると気付いた。
猫は立ち上がろうとするが果たせず、視線を一点に釘付けにしている。
左車線の車列が猫の目前に迫っている。
私は左手にその猫を見つつ通過する。
後のシーンについては目にすることはなかったが、そこに死が訪れたのは明白であった。
ひとたまりもなかったであろう様子だけが思い浮かんで、すぐさま他のことを考え、そのイメージを消し去ろうとしてみる。
ますます思い浮ぶだけであり、打ち消そうなど、逆効果でしかなかった。
猫は無を迎えたにせよ、私の頭は猫だらけ、という状態がしばらく続いた。
2
数年前のこと。
明石の交通センターでビデオを見せられたことがあった。
交通事故で子を亡くした方のドキュメンタリーであった。
およそ考え得る限りのうち、親として最も直面したくない事態と言えるだろう。
親なら誰だってそうである。
亡骸を自分の親に見せる以上の親不孝はない、とインド映画「きっとうまくいく」の中で登場人物が語るように万国共通でそれは最も受け入れがたい出来事であるに違いない。
私なら頭がどうかしてしまう。
猫であればなんともなくとも、「我が事感」を覚えるエリアに事態が及べば息が詰まるような苦しい心境となり、「我が事」となれば、もはや自我など維持できるはずもない。
ビデオのなか、先立った子の洋服を見る度いつまでたっても涙がとまらないという母親が語った。
「辛い気持ちが癒えることはなかった。何度も死のうと思った」
でも、あるとき気づいたという。
「しっかり生きれば、きっといつか、また子と会える」
以来、彼女は死のうなどと考えることはなくなった。
3
映画「私の中のあなた」は、Regina Spektorの「Better」をはじめ数々の美しい曲に彩られた名作だ。
子が難病に侵される。
母親はその死を回避するため何が何でもとあらゆる手を尽くす。
一方で、当の子はその死に向き合うようになっていく。
親子で死へのスタンスに溝が生じる。
親は避けようとし、子は受け入れようとする。
しかしやがては家族皆で従容とその死を迎え入れることになる。
目前に迫る死を前に、母と子の交わす会話は互いへの愛情で満たされている。
家族はそれぞれの道を進み、しかし亡くなった子の誕生日にだけは休暇をとって集まるようになった。
休暇を過ごす美しい風景のなか妹のナレーションで映画が終わる。
なぜ彼女は死に他の者は残されたのか。
答えはない。
死は誰にとっても理解できない。
でも、心はつながっている。
いつかまたきっと会える。
4
周囲見渡せば安易に死を語る言葉が絶えることがない。
死んだ死ねる死ねば死ね。
剥き出しの刃のような無神経な言葉がいくつもいくつもおそらくは深い考えもなしに乱発される。
そのような言葉に触れる度、私ははたして過敏すぎるのであろうか、やりきれないような思いとなる。
そのような言葉を発する者の多くは、死という理解不能性のなかで苦悶する人が現にいるであろうことなど頭にないのであろうし、そもそも人のことなどとやかく気にすることのないメンタリティなのであろう。
死はあまりに厳粛であり、人知を越え、およそ無であるにせよ、その無すら人には理解不能の範疇だ。
何を語るにせよ、その概念の重さは分かったうえですべきであろう。
少なくとも私たちはそうしようではないか。
死についてはこれはもうペラペラと軽はずみにお喋りするような内容ではない。
それだけは確かなことであろう。