先日10月3日の朝日新聞耕論に藤和彦氏のインタビューが載っていて、スピリチュアル・ペインという語をはじめて知った。
「自分の存在が肯定できない状態から生じる魂の苦痛」との説明があって、しばし考えた。
魂の痛みとは何だろう。
体の痛みについては不養生に端を発するものをはじめ実体験が山ほどある。
心の痛みもこの歳になれば幾つも思い当たる。
体の痛みはロキソニンが解決し、心の痛みも大抵は認知を変えれば消え去り、酷なものであっても時が痛みを緩和してくれる。
そのように慣れ親しんだ痛みと魂の痛みとでは同じ痛みであっても次元が異なる話のように思える。
あれこれ忙しく走り回り日常に埋没していると、明日も明後日もこのまま永遠に生き続けるような気になって、生死について思うことがないから、魂といったものに気が向くことなどなかなかない。
つまり、ないも同然であるから痛みなど生じようがない。
だからもし緩慢な形で死に直面するような事態に訪れられたときは、全くといっていいほど予習ができていないので、慌てるというよりも全色悲しみに覆われて、一体全体この人生は何だったのだと、痛みとしか言いようがない悲嘆に暮れることになるのだろう。
死ねば無。
そう心得ているつもりであっても、いざとなれば無に自身をあっさり明け渡すなどできるものではなく、土俵際、逡巡につぐ逡巡のすえ悪あがきし、未練たらたら不本意に喘ぐというのが通り相場のように思える。
そう考えると、やってくる死を肯定できないのは、自身の人生を肯定できないまま無に帰すことが耐え難いからと言えそうだ。
もしスピリチュアル・ペインという言葉を知ることがなかったら、漠としたまま漠と苦しんで取り乱すだけだったのであろうが、知ってしまえば見据えることができ、だから多少はいざというときに備えて心構えを養うことができる。
同じインタビューのなか、柳田邦男さんが語る「死後生」という死生観についても紹介されていた。
肉体は滅びても、親しい人の心の中で生き続けることができるという考え方のことである。
誰かの記憶のなかに残ると信じながら生を終えるのであれば、自身の人生を肯定でき穏やかに死を迎えることができるのではないか。
死の質という視点で見たときその方が望ましい、と氏は語る。
なるほど、死後生。
わたしにも思い当たることがあって深く納得がいった。
いわばこの日記自体が死後生を目論んだものと言え、永く不在となった後でも行間から立ちのぼり、子らの眼前に現れるといったことを企んで日々綴っている。
だから、言い忘れて悔いが残らぬよう日頃の思いや様々な方々への感謝の念をしたため、その他、あれやこれや印象深い出来事が記憶の藻屑とならぬよう端折りつつも書き残している。
日々、死後生に備えているようなものであるから、これをもってスピリチュアル・ペインは回避できるのではないだろうか。
痛みを回避でき、子らの心に残ることができるかもしれない。
いい事ずくめ。
止められない限り、まだ当分、この日記は続くことになるのだろう。