親が思い描いたとおりの子育てなど、あり得ないことだろう。
生まれ落ちたとき、すでに子は固有の内実を抱え持っている。
才能が開花するよう進むべき方向性がセットされ、何に喜び何を嫌がるかもあらかじめチューニングが済んでいる。
親は、その小さな種子の世話をし成長を見守ることができるだけのこと。
有るものは有り、無いものは無い。
無を有にするなどできるはずのないことで、できるとすれば0をせいぜい0.1や0.2にすることや1を1.1や1.2にすることであろうが、取ってつけたような0.1より1.1の方が自然な成長であって望ましい。
取っ掛かりとなるその1が何であるのか、それを一緒になって気長探すのが子育ての本質と言えるのかもしれない。
まさに宝探しのオリエンテーリング。
心の持ちよう次第ではあるが長くじわじわ楽しめて飽きることがない。
この子はいいものを持っている。
そう確信するのが親の務めで、目先で一喜一憂するのではなく、遠い先々この子なりの花が咲くよう心を砕く。
すべてはその人なりの成長にかかっていて、その人なりの成長を遂げられれば二重丸、人生大成功ということになるのだろう。
だから他人のものさしを刀がわりにシノギ削るなんて、寄り道にもほどがあり、しまいには迷子みたいになって一体何のために何をしているのだ馬鹿馬鹿しいということになる。
自分の方向性というものがありさえすれば、そんなチャンバラごっこにうつつを抜かす暇もない。
どんちゃん忘我の乱闘が繰り広げられるのを傍目に、静か静か、自分の道を歩む。
なんだか武士のようであってその方がカッコイイ。
そんな背を見届けられれば、子育て成功、万々歳と言えるのだろう。