KORANIKATARU

子らに語る時々日記

アメリカンドッグを食べながら電車に乗る女子

早朝にクルマで走ったばかりの道路を見下ろしつつ環状線内回りで天王寺へ向かう。
突然の納期変更や煩雑で要件ギリギリの許認可案件のことなど頭痛の種が駆け回る。
お気楽ノー天気では務まらない仕事である。
想定し得る限りの最悪の淵まで降りて、そこで起こること、為すことを直視しあらかじめ考え続けなければならない。
何とかなるさ、Take it easy と目を背ければ任務放棄となる。
陰鬱さに埋没する時間を過ごす。

阪和線長居駅に到着する。
扉が開くと眼前に真っ赤なケチャップしたたるアメリカンドッグをがっつり頬張る太めの女子高生が仁王立ちし薄笑いしている。
キンタマが縮み上がる。
腸詰めにされた豚のことが頭に浮かぶ。

外に出ると暑さ和らぎ、緑の香含んだ微風が心地いい。
夕暮れ間近の我孫子筋を南へ向かう。

前日、家内に連れられスポーツの森で泳ぎ、みずきの湯の炭酸泉にたっぷりカラダをひたした。
疲れはすっかり癒えている。
サウナストーンにざぶざぶ注がれたブルーベリーのアロマの香りがまだ全身に残っているかのようだ。
アロマがもたらす恩恵は想像以上に大きいのかもしれない。
そう言えば、阿倍野の田中内科クリニックもアロマにこだわっている。
そりゃ行けば落ち着くはずである。

目には見えないヨロイカブトを外し、いつもの天ぷら屋さんで4人飲み。
少々飲み過ぎた。
一次会でリタイアする。

この日、強く記憶に残った言葉があった。
帰り際、相良さんに連れられ二軒目へ向かうカネちゃん、今日が誕生日のカネちゃんが、地下鉄の入口に差し掛かかろとする私に言った。
「あと5回おごるで」
私が女子なら3回目の食事あたりでそれなりの覚悟をしなければならないのかもしれない。

電車に揺られ帰途、再び目には見えないヨロイカブトを身につけ、往路同様に課題に沈潜する。
これが終われば一息つける、という間もなく、七曲署に殺人事件の電話が飛び込むように、次から次へと何かが持ち上がる。
安楽心地にだらだらどっぷり浸かることなど、現役バリバリの仕事人である間はお預けのようだ。

耳にするPodcastでは、戦地から帰還した兵士の自殺率の高さが話題となっている。
中東から帰還したアメリカ兵であれ、任地から戻った自衛隊員であれ、その自殺率が際立つ。
想像絶するほどの苛酷な緊迫状態に晒された影響が大きいのだろうか。

酔い客だらけの電車の中で覚える仕事のストレスといったものなど及びもつかないレベルに違いない。
そうであれば、私がONとOFFを切り分ける際に半ば無自覚に用いる「ヨロイカブト」という語など、空疎すぎて世間知らずにもほどがある幼稚な言葉遣いだと言えよう。

テレビのニュースで流れることはないけれど、ネットでチラと調べれば、紛争地帯や戦場の真実を垣間見ることができる。
アメリカンドッグ頬張る巨漢女子高生を見て屠殺される豚が浮かびそれだけでも苦しいような気持ちになるけれど、女子供にすら容赦ない戦場の暴力を知れば、これはもう、平和ボケの地で述べられるナイーブな建前論や理想論など消し飛んでしまうほどのどぎつさであり、人間という種族への見解を修正せざるを得なくなる。

マグロの解体ショーを見ても何も感じないように、食卓に並べられた焼肉や串刺しの焼き鳥を見ても何も感じないように、スイッチひとつでヒトに対しても感覚麻痺して途方もない無茶苦茶をしてしまえるのがヒトなのであると、その悲しい相貌に暗澹となる。

そして、忘れ去られたのだろうか、戦争など無関係、戦争から最もほど遠い平和主義の民といった顔をしてはいても、ついこの間、ほんのついこの間、この日本も戦争の当事者であったのだ。
我々は我々の本性の一面を耳に心地いい建前論で覆って隠すべきではないだろう。

敬意を持てる個人というのはいくらでもいる。
個においては、人間が有する救いとも言える善きものの本質を垣間見ることができ、誠実な面々がちゃんと実在することを我々は知っている。

その善き本質が、個を超えて集団として体現されることはあるのだろうか。

集団となればなるほど、粗悪な共通項で取り結ばれ、その色に染まる。
当分の間、ヒトは変わらず相変わらずといった様子なのだろう。
それをどうにかできるものではない。
せめて染まって害悪とならぬよう、正気保って個として踏み止まる努力ができるだけだ。

帰宅すると子らは既に寝入っている。
寝顔眺めてひとッ風呂浴びてベッドでそのまま昏睡する。

子らもその友達らも、見る間に大きくなり、さらに友達が増え、我が家にしょっちゅう集まるということもあるだろう。
楽しみだ。
その宴で現役バリバリで一献かわせるよう、仲間外れにされないよう、少しは健康に気を配らなければならない。