1
土曜日正午。
学校帰りの二男が事務所に顔を出した。
冬休みの宿題を片付けていくという。
用事を済ませ引き上げようとする矢先ではあったが二男に付き合うことにした。
向こうのスペースで宿題に取り組む二男を見守りつつ、奥まった場所で私は映画「それでも夜は明ける」を見始めた。
時折一息つきに二男が傍にやってくる。
映画の画面を私の肩越し覗き込みながら、先日の期末試験の話などをしていく。
取りこぼしがあった箇所などを悔しがって、また自陣へと戻っていく。
その都度、映画を一時停止し二男の話に耳を傾け、彼が陣地に戻ればまた再生する。
それを繰り返す。
繰り返すごとに私は映画に引き込まれていく。
2
夕刻、二男を助手席に乗せ自宅に向かう。
流す音楽を選びながら二男が言う。
人種によってなぜ肌の色や姿形が異なるのだろう。
さきほど横目にしていた映画のテーマを感じ取り素朴な疑問を抱いたのであろう。
アフリカを起源とし出立しヒトは世界中にその棲息域を広げていった。
各地各所で日照や気候などが異なる。
環境に適応していく長い長いプロセスを経て、自ずと外見に差異が生じたのだろう。
流水や風の作用で自然の外形が変化していくようなもの。
自然の一部であるヒトにおいても変化があって何ら不思議なことではない。
ということは地上のすべての場所が均質ならヒトの外見は同じままだったということになる。
二男はそう理解する。
しばらく沈黙が続く。
二号線を走る車内、二男の脳裡を均質な姿の人類が去来する。
3
時間が経過すれば変化が生じる。
当たり前のようにも思えるが、ヒトはその外見に変化を来すほどの壮大な時間量についてイメージすることができない。
ヒトが世界に拡散し始めたのが十万年前。
百年が百回でも一万年である。
十万年の時間を思い巡らすなどヒトの頭のキャパでは及びもつかない。
住む場所によって黒が白へと変化したなど思いつくはずはなく、それに加え過去について類推するための科学的知識もないはずなので、「神様が白人を造り給い、その白人に仕えるために黒人を造った」という説を強者が理路整然と唱えれば、反論のしようがない。
それを荒唐無稽だと思う直感はあったとしても、力のメカニズムを前にしては為す術がない。
そして黒人は一部を除いて、家畜のように扱われた。
家畜なのだから白人の私有財産。
その管理のため理不尽な差別が法として整備されていく。
映画で描かれたように事がそこまで及べば、黒人が置かれた出口のない閉塞については察するに余りある滅茶苦茶さと言うしかない。
4
当時から一世紀以上の時間が経過している。
しかし、差別が根絶されたわけではない。
法に規定される差別は撤廃され、かつてと比較しずいぶんマシな世にはなったというものの、いまもって不条理な差別が残存するのは確かなことである。
我ら黄色人種だっていつなんどき犬畜生がごとくの被差別民とされてもおかしくない。
肌の色をはじめとする何らかの微細な差異が、優劣のイメージに結び付けられる。
同じであるのに、違いを強調するようにそのイメージは作用する。
あいつらは臭く汚く低能で卑しく貧しく何が何でも劣っているという数々の具体像がそのイメージに吸い寄せられ、見下す意識が更に強化されていく。
ヒトの匂いなどどのみち生き物であるから変わらないのに、臭い実体でもあるかのように、鼻をつまんで忌避するようになる。
因果なもので、その「犬畜生同士」もまた、互いに差異を見出し観念上の優劣を生み出し増幅させていがみ合う。
歴史を振り返れば、これもまたヒトのサガと言うしかない。
叡智の出番を待つしかない。
差別の根は、その虚妄を意識的に学ぶことでしか断てないようなものであろう。
5
FMからクリスマス・ソングが流れ続けている。
すっかり日は落ちている。
武庫大橋で長い信号待ちとなる。
右手に長く続く車列が見える。
ヘッドライトの光の帯が数珠つなぎとなって川に沿う。
右手に目をやるよう二男を促す。
二人して彼方まで続く幾筋もの光の列に見入る。
光に満ちた地上絵が二男の瞼にしっかりと焼き付いた。