KORANIKATARU

子らに語る時々日記

謙虚、謙虚、初心に返る

たまにはピリピリ張り詰めて仕事に向かう。

新規の顧客で取り扱う業種も新規、それでなおかつ切れ者揃うような場に臨むとき、普段どおりの着流しでという訳にはいかない。

 

駆け出しの頃のように入念に準備し質問を想定しその場での話の道筋を幾つも描く。

そのプロセスで緊張高まって、立てつけ悪い安普請仕様のメンタリティであるから、いい歳して臆病風があちこち隙間から吹き込んでくる。

 

それでも向かっていくしかない。

 

だから、最初のつかみでペースに乗れて納得感ある空気に満ちるとまさに水を得た魚、饒舌になって気持ちよく、終盤、なごやか雑談かわす締めの頃合いにはとてもハッピーな気持ちにひたることができる。

 

充実感という戦果をまとって、来た道を戻る。

振り返ればこんなことを何度も繰り返してきた。

 

無様にも敗戦喫したのは仕事人生で2度ほど。

それら敗戦については、いつか日記にて振り返られることがあるだろう。

 

夕刻、上の息子から連絡が入る。

腹が減っては戦ができぬ。

学校帰りの道中、飯代の無心だった。

 

近くの駅で待ち合わせ、改札越し千円札を握らせた。

用が済みさっさと階段駆け上がっていくその背をしばらく見つめる。

 

ちょうど同じ頃、下の息子は家内に連絡し差し入れを求めていた。

西宮北口駅で降車するタイミング、家内は改札で出待ちする。

二男は手製の焼肉弁当を携えることになった。

 

そんなやりとりをWeChatで夫婦して送り合うものだから、あら奇遇、こっちもいま息子に会っていたところだ、ということになる。

 

夕刻6時過ぎ。

これから彼らの第二幕が始まるのだった。

 

誰かのために導き出した解が、誰にとっても最良ということはない。

誰かにとっては不本意。

仕事においては、そういった不完全さがつきまとう。

 

だから会心の仕事をしたはずなのに、ブラインドサイドからクレームつくということがある。

 

慢心につける薬はないので、そのような指摘は有難い。

そこから学んで不完全さの極小化に向け初心に立ち返ることができる。

 

眼前の問題だけに視界覆われ夢中で過ごす年月が長かったので気づかなかったが、いまここだけでなく、目線上げればまだ見ぬ顧客が大勢あると実感できる。

 

交流がないだけで異なる銀河を訪れれば、そこでまた豊かな出会いに恵まれる。

様々な出会いを通じ磨かれて、これからも出会いが待ち受けていてこの先も更に磨かれる。

そう確信できる。

 

二人の男子の父として、またささやか役割を担う自営業者として、もっともっと強くならねばならず、腕を上げていかねばならない。

生真面目に精進重ねる道を歩いているのだと、自身に課されたテーマへの理解が年々深まっていくように思える。

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David Hockney, The Road across the Wolds, 1997.