KORANIKATARU

子らに語る時々日記

空気のように感じるが警察があってこその安心安全である。


京阪電車ホームでの出来事。
ごっつい図体のヤンキーの青年が、ペンシルで組み立てられたかのようなおじさんの腕を掴んで引きずりまわす。

懇願する風におじさんは許しを求め若者にすがるが若者は容赦なく腕を掴んだまま腹部を打撃し腕を支点におじさんを更に振り回す。

腕が奇妙な形で湾曲する。
折れたのかもしれない。

少なくない人数がホームに居合わせたが、誰も止めようとしない。

発火したヤンキーの青年には為す術がない。
相当な腕自慢でもこのご時世、状況を制御できるとは限らない。

このままでは収拾がつかない、そう悟った一人のサラリーマンが駅員を呼びに走ったときには、電車が来てヤンキーはおじさん置いて乗車してしまった。

見習いの若手からこの話を聞き、私ならどうするか、と聞かれるが、警察に電話する以外の方策を思いつけない。

収めどころ、という観点がおそらくそのヤンキーにはないはずであり、そうであれば、火勢強まり事態を悪化させるだけ、おまけに自らも手負いとなりかねない。

ここは大阪府警に任せるしかないだろう。


その夜、選んだDVDは、伊丹十三の「ミンボーの女」。

TSUTAYA DISCASの画面上、「県庁おもてなし課」の横に並び“あなたにおすすめ”と表示されていた。
それでレンタルしたものであった。

伊丹十三の映画を初めて見た。
これは完璧な映画であった。
特に脚本が見事である。

題材として押さえるべきポイントが余さず網羅されている。
伝えようと試みたであろうすべての要素が作品中にぴったと収まりたいへんシャープで的を射た内容となっている。

この映画ひとつで、ヤクザ的ロジックとメンタリティ、彼らの行動の動機といった核心を理解することができるのではないだろうか。

人間関係を構築しながら恐怖というスパイスを刷り込んで相手をコントロールしていくという彼らの常套手段によって登場人物らが翻弄されていく。

誰であれ子がいて親がいて生活があって仕事があってそこを安住の地として平穏に暮らしている。
その基盤につけ込まれることなど思いもしないし、だから準備もできていない。

そんな無辜の民をちょっとつつくなど容易いことである。
元の平和な均衡がお金で復元できる、となれば、感謝してまでお金を払うことになる。

その不条理にどう対処するべきか、毅然とその方法を描いてみせた作品である。

しかし伊丹十三はやや挑発し過ぎたのかもしれない。
映画封切り直後、現実の世界で5人組に襲撃された事件の記憶が古びることはない。


かつての同業者の話を思い出す。
といっても、彼は正式な資格を有さなかったので、尚更つけこまれてしまったのであるが、その憔悴の日々は他人事と片付けられるようなものではなかった。

仕事に不備があって難癖がついた。
お金は払ってもらえず、それどころか、お金を暗に請求される側に立たされてしまった。
新婚の身であり子も小さかったので、家族全員生活できんようにするぞ、という遠回しな表現がどこまでも堪えた。

もしお金を持っていたら、払ってしまったことだろう。
しかし幸か不幸か、彼には工面できる余裕など一切なかった。
お金を払って済ますことが一番明快で道理ある解決に思える心理状態に追い詰められつつ、しかしお金がないという窮地が続いた。


あるとき思いついて、彼は大阪府警に駆け込んだ。
いざとなれば弁護士に相談しようという思いはあったが、お金がないので断念し一人うずくまり八方塞がりを続けていた。
かつてやんちゃな走り屋をしていたからだろうか、警察というアイデアが浮かぶことがなかった。

トラブル相手の名を明かすときに彼は戸惑ったという。
なにしろ、大阪府警でその名がとどろき渡るほどの大物である。
後戻りできなくなるような恐怖を覚えた。
しかし、もはや自分の力ではどうしようもない。
その名を告げた。

一瞬、間がある。
相談に乗ってくれた刑事さん達は一様に、はてと首を傾げている。

とどろき渡る、いうのはあくまで本人の弁であり、実際は、「誰、それ」ということでしかなかった。

何かあればすぐに被害届を出すこと、会う前は必ず管轄の警察に電話すること、などいくつかの具体的な助言をもらい、彼は憑き物が落ちたように心が安らいでいった。
深く深く息を吸い込み、そして、ゆっくりと息を吐いた。空気すらおいしいと感じる境地であった。


後日、彼は相手方に電話をかけ丁寧に丁寧に行き違いを詫びた。
そして、問題解決にあたっては独力ではままならず現在いろいろと相談をし意見を聞いている段階なのでしばらく時間を下さい、と告げた。

何かを察したのだろうか、猶予の時間が過ぎても、連絡が来なくなったという。

トラブル当初に彼から発端の話を聞かされただけで、その後の消息を私は知らなかった。
ここ最近は音信不通のような状態だったのでどこか遠くの地で暮らしているものとばかり私は思っていた。

それが先日偶然にも大阪の役所で彼と出くわしたのである。
元気にしている旨の近況報告を聞き、そしてトラブルの顛末について数年を経てやっと聞き届けることができたのだった。

私は、彼が無事生き延びていることについて祝福の言葉を述べたが、これは大袈裟におちゃらけた訳ではなく、本当にそう思ったのだった。


先日は、メキシコで数十人の学生の死体が発見されたという。

いまのメキシコは、麻薬マフィアと警察が癒着していて、目障りとなれば、いとも簡単に人を殺す社会となっている。
貧富の格差を背景するマフィアの肥大化が、強いものに迎合する警察を生んでいるという。
世も末だ。

社会の安全安心は警察によって保たれる。
体育の日の翌日を警察の日として祝日にし、日本国民あげて感謝するというのはどうだろうか。

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