1
雨は記憶を濃密にする。
振り返ったとき、雨音が余計なものを濾過するのだろう。
その場面はしっとりとした触感を残しながら静謐かつ明瞭に蘇ることとなる。
7月4日大安の土曜日。
昼前から降り出した小雨は止む気配がない。
梅雨明けはまだ当分先のようだ。
集合時間は午後3時。
千日前線から谷九で谷町線に乗り換える。
たまたま八木くんと同じ電車に乗り合わせた。
医師の仕事を続けながら弁護士資格取得の準備に忙しい八木くんの近況を聞きつつ校門前に向かう。
柴田先生はじめすでに大半の参加者が到着していた。
ちょうど浜学園の保護者説明会が講堂で行われていたようであった。
校門脇の守衛窓口で受付を済ませ、入れ違いで校内に入る。
雨足は徐々に強まっていく。
私は森山の差す傘に転がり込む。
柴田先生引率のもと、子供たち家族も含め総勢20名が列になってまずは蕉蕪園を一周りし、そして、新校舎の各施設を見物した。
デビルなどは初の訪問であったようで、興味津々、まさに食い入るという様子であった。
ちょうど今は期末試験中。
図書館や食堂、廊下におかれたテーブルなどで熱心に勉強に打ち込む後輩を何人も目にした。
一巡りして校門前に戻る。
記念写真を撮ろうと並ぶ。
ちょうどタイミングよく星光生が通りかかる。
彼にシャッターを押してもらった。
何枚か撮影し、彼は言った。
これでいいでしょうか、確認お願いします。
やはり、星光。
ランダムに選んで外れがない。
誰も彼もがええ子なのであった。
2
校門前でタクシーを拾う。
柴田先生とご一緒に一次会の会場であるホテルモントレー梅田に向かう。
同乗者は八木くんと森山くん。
車内、森山くんが饒舌であった。
柴田先生と共通で面識ある医者仲間の話が尽きない。
開宴の17:00までには間があった。
柴田先生が今日のため用意されたというプリント類を皆に配布できるよう整理する。
プリントには33期が在籍当時の校内外の主な出来事や黒姫山荘や南部学舎の沿革などが記されている。
山好きであった都成神父が、生徒の野外活動をより充実したものとするため山荘の建築を決断したという記述に目がいく。
柴田先生に伺うと都成神父とは飲み仲間であったという。
たった一人、柴田先生だけが毎度、飲みのお伴に指名された。
学校をよりよくしようという都成神父の志と情熱は並々ならぬものがあったと柴田先生に聞かされる。
我々にとっては都成校長。
よく山登りの話をされていたことを遠く思い出す。
校内外の出来事の欄に、日航ジャンボ機御巣鷹山墜落の項目があった。
我々が高一のとき、ちょうど黒姫山荘に到着した日の出来事であったので事故のことは強く記憶に留まっている。
星光の27期生が犠牲になったとそのプリントの記載を見て初めて知った。
当時、早大理工の大学生であったというから、私にすれば二重に先輩だ。
今日この日がなければ、この事実を知ることはなかったであろう。
3
懐かしい顔がいくつも会場に現れ、おーと歓声のような声があちこちで上がる。
総勢36名の33期が出だしで顔を揃えることになった。
司会進行のタコちゃんが会のはじまりを宣し、プレジデント・グリの乾杯の音頭で、夏会の火蓋が切られる。
柴田先生はビールに口をつけた後、早速、冷酒を何本か注文された。
先生のもと、かつての教え子たちが次々挨拶に訪れる。
高校時代と全く同様、きょう君は茶目っ気たっぷりにどつき回され、タローは愛嬌たっぷりつっけんどんにあしらわれた。医療法人の理事長であろうが、外科部長であろうが関係ない。
冷酒に続いては麦焼酎のお湯割り。
お湯と焼酎は半々で、と先生が注文される。
お見受けした所、先生は健在も健在、めちゃくちゃに元気であり、洒脱ある喋りと気炎は往年のまま、どこからどう見ても、あと百年は安泰ご存命であろう。
皆もそう確信したに違いない。
聞けば、来週は26期主催の宴席があるという。
今回の会の発端となった、まーさんが感じた「虫の知らせ」は、幸いなことにとんだ勘違い、思い過ごしであったようだ。
出席者が一人ずつ演壇に進み出てマイクを握って近況を述べる。
ツッコミ、冷やかしがやまず、笑いが絶えない。
こんな楽しい夏会はついぞない。
そして、一次会終宴間近、7時半。
ソウが現れた。
オッーとどよめくような声があがる。
マイクに直行、ソウが挨拶し、引き続き、これまた東京からの参加、まーさんが到着した。
登場人物が勢揃い。
めでたいことに一次会に全員が間に合った。
4
柴田先生に同乗し、タコちゃんとともにタクシーで二次会のレストランバーへ向かう。
タコちゃんがビルを間違えて、見当違いの階段を柴田先生伴い4階まで上がって降りる。
目指すジローズジュニアは隣のビルであった。
他のメンバーは西梅田から北新地に向け雨の中を歩いている。
貸し切りの宴席に三人で座して、皆の到着をしばし待つ。
今日の出発前、時間があって私は事務所でひとり映画を見ていた。
タイトルは「初恋のきた道」。
ランダムに選んだ映画だったので、再生するまであらすじはおろか中国映画であることすら知らなかった。
老境にさしかった学校の先生が町で亡くなる。
心臓に持病があって容態がにわか悪化したのだった。
村の学校の建て直し予算を捻出するよう町の役所に陳情に赴く途上であった。
都会で働き忙しく何年も帰省することのなかった一人息子が父を弔うため村に戻ってくる。
遺体を村に運ぶ必要がある。
クルマと重機を使って遺体を町から村に戻そうと村長は提案する。
その方が結局安上がりだし合理的だ。
しかし母は、その意見を聞き入れない。
昔ながらの風習に従い、人の手によって棺を担ぎ、霊魂が道に迷わないよう声をかけながら夫を連れ帰ってほしいと頑と譲らない。
父と母の絆の強さを息子は知っている。
一対の男女にこのような深い愛情のつながりがあり得るのだと、知ると知らぬとでは、人生雲泥の差であろう。
粗雑でささくれた人間関係に埋没してしまえば、そこで強がったところで人生は虚無以外の何物でもない。
母の気持ちを汲み、息子は人手を雇うのに必要となる費用5000元を村長に託す。
しかし結局、お金など不要であった。
各地から教え子たちが集まってきた。
その数は百人にものぼり、遠く広州からも駆けつける者があった。
先生に対し学恩がある。
誰もお金など受け取ろうとしない。
背景となる農村が美しく、先生の棺を運ぶ行進のシーンに胸が熱くなって流れ出る涙を抑えられない。
この道は、若き父と母をつないだ道でもあったことが思い返され、さらに涙があふれだす。
誰にどう思われようが構わない、儲けた者が勝ちであり、勝った者が勝ちなのだという思想があってそれがますます幅を利かす世であることについて先日の日記で触れたばかりだが、このような映画を見ると、人の絵姿として大事なことが何なのか思い知らされるような気持ちとなる。
私達は、誰にどう思われるか、誰にどのように記憶されるか、どんな想い出となるか、に責任を負っている。
関係ないとうそぶいたところで頬かむりはできない構図のなか投げ置かれているのだ。
だからどうやら、エゴむき出しの露骨主義など老いて先々、死して後々もの悲しいだけということになる。
私達に矜持や道義、良き人であろうとする心がけが必要なのは、事が自分だけの話ではなく、後に残る者に重大な影響を及ぼすからなのであろう。
そのような話を、他のメンバーが到着する間、独り言のようにタコちゃんに向かって話した。
5
いつの間にか二次会も一次会を上回る賑やかさに席捲された。
一次会と二次会を通じて、お酒は無尽蔵、料理も素晴らしかった。
とびきりの会場に恵まれた夏会であったと言えるだろう。
時間制限がなければ、朝まで無限に宴会は続いたに違いない。
夜11時、二次会がお開きとなった。
私は酔いすぎて、島田が絶好調で饒舌であった他は誰が何を喋って誰が締めの挨拶をしたのかも覚えていない。島田から集合写真も送られてきて、そこに私も並んで写っているのだが、そこに入った記憶もない。
雨降り続くなか、勝濱くんが私に傘を渡してくれたことはやけに印象に残っている。
一体あの傘はどうやって調達したのだろうか。
ぐでんぐでんとなって、私はタコちゃんと別れ電車に乗って帰途についた。
後で知ったのだが、モッチンとクラッチが焼鳥屋を探し出し、20名以上残って三次会を敢行したという。
夜半まで宴会は続いたというし、焼鳥屋とは別部隊の三次会もあったというから、みななんと頑丈で元気なのだろう。
柴田先生は二次会の後、石本くんのタクシーチケットで無事お帰りになられたとも聞いた。
楽しいばかりの、良き再会の日となった。
さあ、明日からまた頑張ろう。
夏会と冬会は毎年の恒例行事であるが、3年後の2018年に卒後30周年記念として、または4年後の2019年、私達が50歳となる節目の年の印として、お世話になった先生方すべてをご招待し2011年以来となる盛大な同窓会を開催しよう。