土曜の午後、かねしろ内科クリニックを後にし、四天王寺夕陽ケ丘に向かった。
駅を上がって学校に向かう途中、岡本家族と出くわした。
「蕎麦はやうち」は美味しい。
そんな内容を立ち話し別れたのであったが、この後、「すきいち」とあだ名される人物が他にもいると知ることになった。
岡本好一先生の下の名にちなみ33期岡本くんは中一の初っ端から「すきいち」と呼ばれ始め、中年となったいまもまだ「すきいち」と呼ばれ続けている。
わたしが妹尾くんに「すきいち」に会ったよという話を学校の会議室でしていると29期の先輩が反応した。
29期にも岡本という名字のせいで「すきいち」と名付けられ、いまもそう呼ばれている人物がいるということだった。
広い宇宙、地球と同じような星が幾つあっても不思議はない。
それと同じで、別の銀河ならぬ別の期に「すきいち」がいてもさして驚くことではない。
探せばもっと多くの「すきいち」に巡り会えるのではないだろうか。
そのような話をしつつ会議となって、この日は大阪星光の知名度の低さが話題になった。
他に類を見ない特長を多々備え立地よくそこそこ歴史もあるのに無名に近い。
出しゃばらない、という伝統的な校風が徹底していて、実際、「広報活動をしない」、「広告費を使わない」、「メディアの取材を受けない」と学校の姿勢は一貫している。
自ら情報を発しないのであるから知られる訳がなく、それがゆえ謎めいたオーラが醸される訳でもなく、ただただ素朴に無名という存在になりおおせている。
その在り様を生徒も内面化するから、自身を声高に喧伝することがないという特性は星光生一人一人にも当てはまるのではないだろうか。
健さんが寡黙であったように、そんな学校があってもいい。
大方はそれでいいと思いつつ、先々もこれでいいのかとなると見解が分かれた。
少子化傾向に歯止めがかかる見通しはなく、現状のように知る人ぞ知るといった方々だけを対象に生徒を募る訳にはいかなくなるだろう。
進学実績という「量」のみならず、やはり今後は「質」的な部分についても広く知られるよう努める必要があるのではないか。
たとえば、合宿の多さ。
海と山をほしいままにできる独自の合宿施設を有するなど稀有な話だろう。
そこで育まれる人間関係もまた特筆のものと言える。
横の繋がりだけではなく、南部や黒姫が象徴的な存在として機能して縦においても人的繋がりを強め深める役割を果たしている。
医師の輩出数も星光の特長として忘れてはならないだろう。
現在、のべ二千人超。
医学生を含めれば卒業生の6人に1人が医師になる計算で、そんな学校は珍しいに違いない。
ちなみに33期は2.5人に1人が医師となり、39期では3人に1人でこれに次ぐ。
それに加えて、巣立った卒業生が医師となって年月経ち、いま要職につく方も少なくない。
ちょっとした規模の病院の部長職は、右を見ても左を見てもといった風に星光出身者に占められている。
その他、多様な業種にて活躍するOBが数多いて、共通するのが、皆、優しいというところ。
やんちゃ者であっても否応なしキリスト教的博愛精神の幾ばくかが内面に刻み込まれるから、どうしてもまあ優しい、憎めない人物が造形されることになる。
そういった学校の特長について全くアピールをしてこなかったから、学校名とは裏腹に光が当たらず、スポットライトは他校に注がれ、星光は日陰者的な存在に甘んじざるを得なかった。
いまは深刻ではなくても、このままという訳にはいかないだろう。
そのような話で会議は結ばれた。
会議後は場をミナミ治兵衛に移して懇親会。
校長先生、教頭先生、同窓会前会長といった錚々たる面々と同じテーブルになり鍋をつつくことになった。
会話のなか現校長が東京工業大学出身であると知り、前校長が早稲田政経だと知った。
思えば昨年の懇親会でわたしの隣席は前校長だった。
早稲田と知って、一年の時間差を経て前校長にしみじみとした親近感を覚えることになった。
この日、最も印象に残ったのは教頭先生の言葉。
星光は30期代が圧倒的に賢かったのだという。
試験科目が算国だけで、それが2日間に渡って実施されていた時代と重なるのだろうか。
そんなことを考えつつ、二次会へは行かず帰宅した。