KORANIKATARU

子らに語る時々日記

時と場をふまえた「視線」への心配り

世界各地のリゾート名が夏休みのSNSを羽振りよく彩り、地域近隣では世界各地のリゾートの名産が景気いいみやげ話とともにひとつところに集結する。

想像してみる。

もし自分が超零細のブラック企業の新規開拓の営業マンで、業績芳しくなく賞与は雀の涙で、やりくりは火の車、子らの授業料の引き落としに戦々恐々、ついにはヤミ金に手を出し、内緒の借金が雪だるまのように増えていく。

人生のテーマが借金苦というダークな褐色にみるみる塗りこまれていくが、仕事はつらく厳しいだけであって突破口にはならず、まさにお先真っ暗という無限地獄を彷徨い歩くような日々。

旅行の費用など捻出できるはずもなく、しかしそれではあんまりだと、温泉の素をふんだんに入れての風呂あがり、闇で仕入れた肉を七輪でこんがり焼いて食べ、これはめったに手に入らない特上の珍味なのだよと子を騙し夏の思い出とするような身であったとしたら。

いくら自我が強くても孤立感の寒風が吹きすさぶであろう。

目の当たりにするのは、趣味趣向の違いで夏の過ごし方がたまたま異なったという相対的な差異ではない。

貧富という絶対的な差の谷底に置かれた自らの悲惨を直視することになる。
ケセラセラとその悲哀を笑って振り払うのは容易なことではないだろう。

憎悪まであと一歩。
開き直って悪行に手を出すまであと数歩というところ。

鷹揚さがすべて消え失せ、焦燥と自己憐憫に心震える極点に精神が至ったとしても何ら不思議なことではない。

そしてこれは何も大人だけでの話ではなく、そのような土壌は子らの間にもある。

数か国を優雅に旅する友人なんて彼らの学校であれば珍しくとも何ともない。

夏をどう過ごした?
友人らの間で話題に上がる。

いくら貧乏でも自我が安定していれば、おれは家で過ごした退屈やったと何のてらいもなく言えるだろうが、もしたまたま精神の風の吹き回しが悪ければ、嘘つく者もあるかもしれず、エネルギーの栓が抜けたように意気消沈してしまい友人から距離を置くという場合もあるのかもしれない。

何気なく、何の飾り気もなく発した言葉や振る舞いが、誰かを傷つけることがある。

心あるなら、できれば避けたい。
ちょっとした一手間。
何事も想像を巡らせ相手の気持ちを考えてみるということが大切で、そう知っておくことは何より大事なことなのだろう。

その昔、知人に忠告された。

日記を書くのはいいが、普通の話を書くだけでも、けったくそ悪いと怒り狂う人間がいるから注意した方がいい。
普通に歩いた、誰かと会った、ご飯を食べた、出かけた、といったありきたりな話でさえ、強烈な加虐的自慢話として捉える人がいるのだ。

気には留めつつ、特異な人の気持ちに従属する不自由に甘んじるつもりはないので、調子には乗らない程度、好き勝手に書いてはいる。

しかし、そのことを忘れたことはない。
誰かがどう感じどう思うなど制御できる話ではないが、自らの思惑の「埒外」に棲息する人々があることは心に留めておいた方がいいだろう。

格差社会だと言われる。

ちょっといいクルマに乗って、少しおしゃれな服を着て、やんわりとではあっても優雅さが「場違い」に漏れ出てしまえば、それで傷つき憎悪たぎらせる人もある世であるとよりいっそう心して弁えておくべきなのであろう。

そもそも日本人は日常的には「これみよがし」を慎む知性の民であった。
時と場をふまえた「視線」への心配りに、その人物の見識の多寡が透けて見える世になっていく。

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