KORANIKATARU

子らに語る時々日記

親が寄せた中学受験合格体験記


お盆最終日、実家で父と飲む。
冷蔵庫満杯に詰めた缶ビールはニ時間で尽きた。

あと何回一緒に飲めるだろう。
毎回そう考えつつ月に一回は訪れる。

話は尽きない。
子供時代にはとても聞けなかったような話を一言一句耳の奥に刻み、話す仕草や表情を目に焼き付けていく。

眼前の光景が過ぎ去って記憶のなかの一断片となっていく。

少しでも多く胸に留め、時期が来れば子らに話して聞かせることにする。
受け継がれれば、この瞬間が生き永らえていく。

ふとしたとき、子らがそれらの言葉を思い出すのであれば、その度毎に父は息吹き返し蘇ることになる。

人は人伝いでその面影と言葉を残していく。
ただ消え去るのではない。


私と父がビールを飲み尽くしハイボールに移ろうとしていたちょうどそのとき、子らは従兄弟三人とガーデンズの映画館でジュラシック・ワールドの上映を今か今かと待ち構えていた。

五人並びの席は午後八時上映のスクリーンでしか取れなかった。
従兄弟にとって、うちの長男二男、この頼もしい兄貴分二人と並んで映画を観るなど格別なことであろう。

知らず知らず弟分は兄貴分の影響を受ける。
着る服や持ち物、整髪料に髪型といった外形を真似るだけでなく、内面的なもの、考え方や物事への取り組み、習慣やふるまい方、言葉づかい、そのようなものまで取り込んでいく。

兄貴分はそれを自覚し少しは襟を正し、弟分は先発隊である兄貴分が得てきた果実を兄弟の契りとして受け取っていく。

そのように、人は繋がっていく。
良き流れはますます良き流れとなり、悪しき流れは更に悪しきものとなる。
年長者の責任は重大だ。


帰宅しシャワーを浴びて寝床につく。
枕元にあった合格体験記を手に取る。
昨日塾で二男がもらってきたものだ。

子供たちの体験記だけでなく、後半部分に父兄からの寄稿も掲載されている。

言葉を寄せているのはほとんどが母親だ。
みな筆達者。
読み物として興味深く、ちらと見るつもりが本気で読み込むことになった。

幾通りもの体験記があるが底流においてどれも共通している。
母の切なる思いや願いが綴られ、長く暗いトンネルを手探りで歩き続けるような不安や葛藤が今となっては安堵感とともに吐露される、そういった通奏低音に貫かれていた。

塾に任せっきりで子が勝手に取り組んだ、といったような話はない。
塾に放り込んで月謝を払っていれば、一端の学力の者がレンジでチンと出来上がる、そういったことはない。

おそらく中学受験は、その先のレベルの熾烈さであって、リングサイドで戦況見守り随所でケアするセコンドの役割を不可欠とする。
そして、その任に就くのは大半が母親だ。


セコンドとして機能するための匙加減は簡単ではない。
単に過保護であるのであれば論外であり、口出しが過ぎるのも逆効果となる。

中学受験というプロセスのなか、子は規律や意志、生活態度といった様式を身体化し、自らの力を直視しながらそれらを維持し向上させ続けるための精神性を獲得していく、またはそうであろうともがく。

その孤独な奮闘を邪魔せぬよう、間接的に手助けする役目をセコンドが果たす。

笑顔で話しかける、おいしい料理を作る、時には何もしない、折々の状態を見て感情を抑制し、何がプラスに作用し、何がマイナスとなるかにだけ焦点を合わせ、子の様子を見極め接する知性が必要となる。

娘気分の抜けない幼い母にはとても手に負えない域の心遣いかもしれない。


父兄の合格体験記を読んで、子だけでなく親もまた成長するのであると再認識させられた。

ところで、中学受験のデメリットについては諸々語られる。
子が依頼心まみれのヒヨワな軟弱者となってしまう。
狭量な価値観に染まる。
答えのある問題にしか取り組めず、奔放な創造力は失われる。

「致命的欠陥を子が負うことになるなんて受験は暴挙だ、おっかない」とデメリットについて親身に説いてくれる人にはそう同調的に受け答えし、後は口数少なに世間並みの挨拶だけして我が道を行けばいいのだと思う。
様々な世界観をベースにして人は安寧を保つ。
人は人。議論は不毛であろう。

話を戻すが、子らは受験を通じて更なる自律の一歩を踏み出し、親はそのプロセスから、努力や規則正しい生活や向上心など人が有すべき基本について学び直すことになる。

合格体験記には過ぎ去った奮闘の日々が綴られている。
そして、今年来年再来年と、登場人物を変え、常に現在形で蘇り続けることになる。
紙を媒体にそれら成長の奇跡が命得たみたいに繋がっていく。
こと受験に限らず前を向くために心得るべきことが随所に書かれてあるので読み始めれば止まらない。

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