KORANIKATARU

子らに語る時々日記

自らの手仕事をピカピカに磨き上げていく


この冬一番、触れ込みどおりの寒波が列島に流れ込み大阪でさえ明け方には気温が零度を下回った。
近年ないほどに冷え込む日曜日、南に向いたデスクに腰掛けひとりで過ごす。

年が明けすべてがもとの落ち着きを取り戻しはじめた。
この時期を境に再び仕事全開となっていく。
向こう一年を通じ備えるべき事柄について素描しその輪郭を頭に叩き込んでいく。

ときおりは頭上広がる澄み渡った空に目をやる。

木々が揺れ外気の風立つ様子が伝わってくる。
流す音楽はマイケル・ナイマン。
その旋律が眼前の景色と寸分違わず調和する。

日差しは明るく部屋は暖か、洗いたてのセーターは柔らかで香り立ち、椅子はどこまでも座り良い。
漕ぐ手を休め波の間に間に漂っていた小舟がまもなくまた仕事の海へと繰り出していく。


組織にあることはつらく厳しく、いつ何時どのような拍子で傍流に追いやられるか見当もつかず、嫌味やあてこすりはお決まりの挨拶のようなものであり、いちいち真に受けていれば神経は持たず、何を言われようが意に介さないとなってやっと一人前であり、だから当分の間遠方へ赴くべしとの辞令を突如突きつけられてももはや顔色一つ変わることがない。

何とか凌げば55歳まで現状の収入は維持できうまくすれば62歳まで生き延びられる。
そこまで踏ん張れば卒業まで子の授業料を賄える。

その先は。
そんな遥か先のことなど気に揉んでも始まらない。
その先のことは、その先のこと。
いまはとにかく石にかじりつくのみ。

心模様はいつも雨、特に月曜朝、その雨脚は激しくなるが、誰だって同じこと、文句垂れてどうなるものでもない。
行ってきますと元気よく、鉄の笑顔で家を出る。

世間ではエリートと目される一群のなかにも、吐露すれば実はそのような心細い身の置き場しかないといった者がある。

寄らば大樹など希少の植物。
枯れ木の下に置かれれば雨を防ぐ術はない。

組織に対し言わば下駄を預けたようなもの。
不運不遇は織り込み済みのことでありつべこべ言っても仕方がない。


意気揚々と組織に属しそれを誉れだと思っていても、場合によっては長く引き続く苦境に置かれることがある。

子供のうちから、そのような社会の厳しい実相について心得ておくべきであろう。
勝った勝ったと既成の勝負を勝ち抜いたその先に、勝ちに見合った果実は何一つないのかもしれない。
そういうことだってあると頭に入れておかねばならない。

つまりは我先にと駆け出す前に、戦況を読んで自らの勝ちについて戦略を練っておく必要があると言うことである。
社会は複雑怪奇。
負けるが勝ちに溢れている。

少なくとも、下駄は預けるよりも履いたままである方がいいだろう。


手仕事するには小舟で十分。

枯れ木の下で雨に打たれて立たされるくらいなら、海へと繰り出し思うまま船を漕いでいる方がいいのではないだろうか。
注意深く波を読んでいれば、ひっくり返って水浸しということもそうそうないだろう。

そして、もちろん小舟であるから積み荷は少ない方がいい。
伴侶は細身の方がよく、ついでに言えば、欲で肥大したような妄想妄執なく虚飾にたやすく幻惑されないくらいの人がいい。

なにしろ小舟。
積めば積むほど難破リスクが高まっていく。

そんなイメージだろうか。
世の中には喩え話で伝えた方が分かり良い事象が少なくない。

大海原にはいくらでも浮かぶ瀬があるはずだ。
そこで自らに固有の手仕事を見出し、それをピカピカにしていく人生に勝るものはないように思う。

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           2015年3月14日午前10時 八重山郡竹富町