KORANIKATARU

子らに語る時々日記

クリスマス・ソングが街に流れ始めた

クリスマス・ソングを耳にしたのは今年になって初めてのことだった。
懐かしいような思いにかられながらセブンカフェでコーヒーを入れる。

夕暮れ時のショッピングモールが祝福されているかのような特別な場所に思えてくる。

カップを持ってその場を離れる。
コーヒーは一人静かに飲むのがいい。

表に停めてあるクルマに乗り込んだ。

夕闇を背景に光帯びる建物を眺めつつコーヒーを味わう。
館内で鳴り響くクリスマス・ソングはここまでは届いてこない。
聞こえてくるのは、街路を縦横に走り抜ける冷たい夜風の音くらいである。

日中の業務で張り詰めていた気持ちがゆるゆるとほどけていく。
そう金曜日、武装解除が許される。
心置きなく五体をスローダウンさせていく。

ネットに目を移す。
いまや空気を伝って情報が届く。
どこであれ居ながらにして、必要な情報にアクセスできる。

海外探求旅行中の西大和高一の近況も例外ではない。
アンコール・ワットを背に友人らと撮った写真に目が留まる。
一様に皆が笑顔だ。

雲間から朝陽差し込み、薄明かりに照らされる古代王朝はまさに幻想的な趣きを醸す。
遠い異国の壮大な時の流れのなか友人らとともに過ごせることの幸福を思う。

一人一人の内面にもたらされる好作用は計り知れず、彼らの結束は一段と強まることだろう。
アンコール・ワットで日の出を拝んだ仲と言えば任侠の世の盃以上の意味を有し得る。

このあと彼らは現地学生らとの交流会に参加する。
これまた得難い経験であり、忘れ得ぬような出会いに恵まれることになる。

異国の風景や土地に触れ、彼の地の友人との出会いを通じ、彼らのなか世界を見る視点が豊かに増えていく。

長い目で見たとき、物事を捉えるアングルは各種色とりどり備わるに越したことはない。
短い目で見て狭い視野のなか窮屈に留め置かれるよりもはるかにいい。

もちろん向こうにいる間、心配は絶えない。
親からすれば、まだまだ頼りないベイビーボーイ。

それでも行って来いと送り出す。
若者にとっては機会がすべて。
送り出し、そして祈るような思いであることはいつだって変わらない。
これが良き選択であり良き結果に結びつくようにとただただ念じる。

引き続きネットを検索し寒々しいような掲示版に行き当たった。

世の中にはいろいろな人がいる。
大人もいれば子どももいて、大人に見えて子どもの人もいる。

たまたま星のめぐりが悪かった人たちなのか、怨嗟と嗤笑を撒き散らす一群があった。
バケツリレーのようにせっせと汚物のような言葉を運んで、注目されればそれが憂さ晴らしになるのだろう、合いの手をエネルギーにして、その排泄リレーはとめどない。

目に余ったのだろう。
なかにはお節介にもその渦中に突入する人もあった。
が、ミイラ取りがミイラになるだけことであり、つまりはバケツリレーの列に並んで汚染の拡大に一役買うという本末転倒な話になるだけであった。

つぶさ眺めて精神的なロスを被るのは悪趣味に過ぎる。
介入して火に油を注ぐのであれば害悪だ。

そっと蓋をし目に触れぬようにするのが大人の見識と言えるだろう。
上水と下水を分かつみたいに世の清濁も分別するのがまともな衛生観念であり、そう考えれば俗言の流路に顔突っ込んだ良識がたどる陰惨な末路も容易に想像できるというものだろう。

顔を上げ、ますます光強めて賑わうショッピング・モールに目をやる。
外気は冷たさを増し、それだけいっそう館内に響くクリスマス・ソングはあたたかみを増していることだろう。

ふと思う。

バケツリレーに忙しい彼らもまた、クリスマス・ソングから隔てられたような場所にいるのかもしれない。
ぬくぬくとした館内にいるような連中を思い浮かべると苛々がつのって腹が立ってしょうがない。

だから毒を吐いて汚物を運ぶ。
しかし、汚物以外に運ぶものはなく、それも巡り巡ってバケツリレーでまた自らの手に戻る。
ちょっとした地獄絵図となり得るような悪循環だ。
毒にまみれてなんだか気の毒に思えて仕方ない。

その気になって万年床から飛び立てば、もっとましな気分で過ごせる世界をいくらでも見出だせると思うのだけれど。