映画「アクト・オブ・キリング」を見て、ある初老男性のことを思い出した。
年の頃は六十路を過ぎたくらいだっただろうか。
大阪の方であったが物静かな語り口が印象的であった。
装いはダンディ。
中折帽を被り、レザーのコートを羽織って、腕にはシルバーのロレックス。
基調となる強面な雰囲気のなか、ときおり見せる柔和な表情に好感が持てた。
一度酒席をともにした際、映画の話となった。
その男性は、ゴッドファーザーが好きでいまも繰り返し観るのだという。
男同士の力の争奪、その腹の探り合いと駆け引きの教科書のようなものであり、見る度に新たな発見がある。
そう聞いて影響受け、わたしもゴッドファーザーのDVDを買い揃えることになった。
ところが、一瞬抱いた好感も長くは続かなかった。
お金になるからといって人を泣かせたり傷つけたりしていいというようなものではないだろう。
即物的な執着と薄っぺらな気取屋気質に辟易しわたしは距離を置くようになった。
「アクト・オブ・キリング」の主役を成すのはフルマンと呼ばれる男たちである。
語源はフリーマン。
要は、ごろつきのことである。
1965年、インドネシア全土で100万人が犠牲者となる大虐殺事件が起こった。
反政府勢力だとして共産主義者と華僑が標的となった。
実働の一翼を担ったのがフルマンであった。
監督であるジョシュア・オッペンハイマーは天才と言うしかない。
彼らフルマンを偉業成し遂げた功績者であると持ち上げ担ぎ上げ、その気にさせて映画に出演させた。
そして、彼らは嬉々として誇らしげにその虐殺について洗いざらい話すことになるのだった。
映画であるから時に叙情的なシーンも挿入される。
そこにフルマンも登場し、監督の指示どおりに、意味ありげな振り付けで踊ったり歌ったりする。
一瞬美しいようなシーンであるから一層、彼らの無自覚な凶暴と根深い滑稽が浮き彫りとなって、シュールなことこの上ない。
手柄話でもするかのように、尋問や殺害の詳細を再現する彼らのあっけらかんが、あまりに非道で正視に堪えない。
しかし、そこに映し出されるのは、人間の本性であることもまた間違いない。
知性欠如した人間が帯びる凶悪と劣悪が、ビジュアルとなってそこに確かに捉えられている。
その気にさせられれば、いい気になって歯止めなく、ヒトという種族はなんだってするのである。
その本質を目の当たりにさせられる。
だから本作は、ヒト一般の生態を捉えたドキュメンタリーともなり得ていると言えるだろう。
そしてフルマンのボスも、ダンディ風漂わせる英雄気取りなのであった。
映画俳優であるかのごとくそのヒロイズムを体現しようと振る舞ってしかし猿のような面立ちなので、銀幕のスターとの落差が激しすぎて痛々しい。
インタビューに答えてフルマンのボスは言う。
好きな俳優は、マーロン・ブランド、アル・パチーノ。
彼もまたゴッド・ファーザーにかぶれるようなメンタリティの持ち主なのだった。
一歩間違えればゴッドファーザーは悪役のためのバイブルになりかねず、受け手によっては暴力について誤った崇拝と信念を醸成させる作品であると言えるのかもしれない。
アクト・オブ・キリングのラストシーンは圧巻だ。
映画最大の見せ場となるラストに、ジョシュア・オッペンハイマー監督の天才性が凝縮されている。
映画撮影の過程を経て、フルマンのボスは、自らの行いを直視する他なかった。
自分の行為に向き合って、最後の最後、その本質に焦点がピタリ合ったときがラストシーン。
恐怖と嘔吐。
映画に出演することで、加害者自身がそれを追体験することになるのであった。
必ず見ておかねばならない映画作品であり、続編となる「ルック・オブ・サイレンス」も見逃せない。
加害者からの視点が、続編では被害者からのものに転じる。
対を成す二作が相俟って、1965年インドネシアの地おいてヒトが引き起こした巨大な暴力について理解が深まることになる。