KORANIKATARU

子らに語る時々日記

互いの言葉が互いを支え合った

 2月5日の毎日新聞に「シベリヤ抑留下のハガキ」という取材記事が掲載されていた。

終戦間際の1945年8月9日、ソ連軍が日ソ中立条約を破って突如満州を侵攻し始めた。
多数の民間人が殺害され家族は離散し、60万人もの日本人がシベリアなどソ連領で強制労働に従事させられることになった。

抑留下の環境は苛酷であった。
極寒と飢えと重労働。
次々と仲間が死んでいく。

抑留者の名がラジオで読み上げられ、そこに満州で生き別れとなった夫の名があった。
妻は奈落の底に突き落とされたような気持ちとなった。

1952年の夏、一枚のハガキが妻のもとに届けられた。
夫からのものだった。
終戦から7年もの歳月が流れていた。

四ヶ月後、今度は夫のもとに妻からの返信が届いた。
子どもたちの写真が同封されていた。

夫はスパイ容疑によって25年間の自由剥奪と矯正労働の判決を受けていた。
刑期終わるのは1974年、命あったとしてもそのとき74歳になっている。

いつ命を落としてもおかしくない絶望的な境遇のなか、夫はハガキを書き続け、妻は返事を書いた。

互いの言葉がどれだけ互いの支えになったことだろう。
夫は熾烈極まる日常を生き延び、妻は忍苦の月日を持ち堪え子らを立派に育て上げた。

遠く離れてなお、言葉が夫婦を強くつなぎ留めていた。

1956年10月、日ソ共同宣言が締結され、抑留者の引揚が始まった。
夫が乗る興安丸は計1025人の引揚者を乗せ、年の瀬の12月26日、舞鶴に入港した。

夫婦は仲睦まじく穏やかな老後を過ごしたという。
遠く離れ互いを思い気遣い合った11年は同時に互いにとって厳しく困難な年月でもあった。
しかしその時間が二人の絆を唯一無二なものへと編み上げた。

その時間の確かな重みをハガキが証す。
彼の地から持ち帰られたハガキ52通は息子さんの家で大切に保管されているという。

この春は家族を引き連れ、再会の港、舞鶴を訪れようと思う。