KORANIKATARU

子らに語る時々日記

子らに語る大事な話1


阪急電車西宮北口へ向かう。
前に座る男性が発進と同時に分厚い本を開く。
ちょっとした空き時間に何をするか、あるいは何に没入するか、そこに人物の一端が現れる。
ジロジロ周囲に視線を彷徨わせる者、眠りこける者、ピコピコとゲームに励む者、ただただ虚無をかこつ者、典型的な各種標本がひと揃い見渡せる。

島田智明の姿が浮かぶ。
使い途がないとしか思えない隙間の時間、彼の意識は熱く点灯し何かに入り込む。
細切れすぎて手持ち無沙汰となりそうな時間であればあるほど島田の才知は先鋭さを増す。

ふと視線を移せば、教室の壁にもたれびっしり文字の詰まった本を片手に読みふける少年狭間研至の姿も蘇ってくる。

星のしるべ33期、並み居る早熟な知性の面々が記憶のなか次々と照らし出されてくる。

文明の夜明け前、思春期のチンパンジーみたいにはしゃぎまわる私やゴリラのガイといった一部未開人の輪郭はあくまでおぼろ、荒城の月の、荒城の方である。


架電トラブルが原因で長男が乗る電車が二時間あまり緊急停車したという。
同じ学校の生徒達の何人かはすぐさま状況を受け入れ、それまで流しつつ取り組んでいた勉強に本腰を入れ始めた。

宿題に追われ切羽詰まってやむなく、という者も中にはいたであろうが、状況に適応してそのように切替え集中力を発揮できる心的態度に感心させられる。
日々培ってきた訓練の賜物なのであろう。

世の中には、手待時間や隙間時間に、あるいは丸々空いた一日に課題も主題も趣味もなく何もすることがない、という大人が山ほどいる。
微小な時間の集積こそが、人物が成り立つ基盤そのものであると考えれば、これ以上頼りないことはない。

たかが勉強であれ、ふとした瞬間に真剣に取り組む、日頃から心整えそのように自らを秩序だてることができる能力は、勉強の出来不出来以上に重要なことだろう。

そのような光景を目の当たりにし好作用を受け、自身にもその習性が身につくのであれば、副産物としてたいへん貴重であり、電車通学も意義深いことに思える。


どの学校がああだこうだ、この世の果てまでもそんな話ばかりして飽くことのない受験ママなどに顕著だが、そのような主題で話せば話すほど大事なことがますます見えなくなっていく。

決定的に重要なことは一語に尽きる。
粉骨砕身何かに取り組む。
これに勝るものはないだろう。
生きる喜び、幸福のすべてがそこに凝縮されている。

言葉では伝わらない。
非言語の範疇にある。
時間をかけ実地で体験し味わってもらうしかない。

楽しいから幸福だ、とか、カッコイイから幸福だ、とか、楽チンだから幸福だ、とか、これが買えれば幸福だ、とか、手っ取り早く分かりやすいけれどしかし周縁的な事柄に過ぎない要素が過大視され、現代では幸福が矮小化されている。
だから尚更、「臓腑に沁みわたるような滋味」を感受できるようになるには、忍耐を要するほどに長い時間がかかる。

尽きない喜びの源泉がどこにあるかそれを感知させること、そして、それを追求できる精神的な基礎と能力的な基礎を築造する手助けをしてあげる、何がプラスに作用しマイナスに作用するのか見極めて地に足ついた環境を整える、親の務めはそこに集約されるだろう。

子の内面の何かが発動すればあとは見守るだけとなる。
そして次は、人生それだけが全てではないよ、とその奮闘をやわらげる機能を家庭が果たせるよう意識する段階となる。


西宮北口に到着する。
凍えて暮らした激寒の日々など遠い昔のことのようだ。
ふと頬にあたる柔らかい空気に春の兆しを感じる。

本屋をぶらつく。
適当に手に取り流し読みする。

平板で無味な文章で書かれたものより、一文一語にさえ考察と情報が凝縮された濃厚な文章に惹かれる。
斜面のぼるような負荷があり、起伏に富み多彩な景色を見せるような文章でなければ読み応えを感じない。

読み進む一文一文が、現在進行形で解凍され内部で蘇り続け、豊穣なイメージが馥郁と膨らみ増殖していくような文章であればじっくり読めるが、どこに実があるのだと砂噛むみたいな中身スカスカの文章だと流し読みすらまどろっこしく面倒になってくる。

本屋に並ぶのは、連絡文書として箇条書きまたはチャートで一枚の紙にまとめられる軽めの内容の本が大半だ。
皆忙しいのだろう。
実を探してぺらぺらとページをめくっていく。

これは、と手に取ったなかで流し読みでは済ませられない単行本に二冊出合った。
収穫である。
アクタのジュンク堂とは相性がいい。

レジに進むと電話が鳴った。
ちょうど時間だ。