依然として風は冷たく日が落ちれば尚更寒さ増すがしかしどこか空気のなか春の気配が漂い始める二月初日、県の南側を東西に走る沿線の駅で降り半時間ほどかけ北上し家へと向かう。
私が家についてまもなく二男が帰宅した。
揃って食卓につく。
同居するドイツ人と一緒にスポーツジムに入会したと報せる長男のメールを二男に見せつつ充電がてらiPhoneをオーディオに接続する。
さて、音楽は何を流そうか。
昨晩同様、私が東京でひとり暮らしを始めた頃合いによく聴いた曲を流すことにする。
前夜はスザンヌ・ヴェガ。
今夜はエリック・サティにした。
寂しさとは無縁のいまの暮らしからロープを伝うようにしてかつての思い出の淵へと降りていく。
春の肌寒い頃、物珍しくてあちこちほっつき歩いたが、序盤のひとり暮らしは実に実に寂しいものであった。
誰も知った人のない街で夜一人ぼっちで過ごす寂寥について二男に話す。
二男は昨夜観たジョニー・デップの映画を話題とする。
「ブラック・スキャンダル」はR15指定だが入館に際し何も言われなかったらしい。
先日観たトム・ハンクスの「ブリッジ・オブ・スパイ」の方が面白かったと二男は言う。
映画館で渋目の映画を一人観る少年の姿を思い浮かべる。
二時間じっとスクリーンに見入って彼の内面に生じるよき化学変化について想像してみる。
料理でも何でもそう。
作品と呼べる域の手の込んだものこそよき作用をもたらす。
夕飯を終えそのまま食卓で彼は課題に取り組み私は本を読む。
「チェルノブイリの祈り」。
一行目から惹き込まれる。
いきなり肉声が立ち上るかのような文章でありその声をキャッチしてしまえばもう後には引けない。
切実な声に耳を傾けるようにしてページを繰る。
チェルノブイリで起こった原発事故そのものが詳述されるのではない。
事故に見舞われた人々の「声」によって本書は構成されている。
「声」に接することなしに事の真相に行き当たることはない、そう知ることができる。
週末、「あの日の声を探して」という映画を観たばかりであった。
ロシアがチェチェンに侵攻したとき、実際そこで何が起こったのか。
ニュースで知ることができるのは、死者数であり日時であり政治的な背景くらいのものである。
映像を通じ、そのときの「声」が再現されていく。
丹念に拾われた「声」によってわたしたちは、そこでどれだけの人の命が踏みにじられたのか、醜悪なまでの酷さ理不尽さついて、肌で感じることができるようになる。
そのように二男に話しつつ「チェルノブイリの祈り」を読み進める。
時折、視線が釘付けとなってしまうような「声」に出合う。
私は老婆の声のくだりを二男に読んで聞かせる。
「さびしくなると、ちょっと泣きます。墓地に行くんですよ、あそこには母が眠っている。わたしの小さな娘っ子も。亭主もあそこ。みんなのそばに腰をおろして、ちょっとため息をつくんです。ひとりでいるとき、悲しいとき、とても悲しいときには」
今はもう亡くなってしまった遠くの誰かの声ではなく、身近にある人の声として響く。
日頃聞こえないだけであり、耳を塞いでいるだけのこと。
まわりを見渡せば、そこかしこ、このような声が溢れているに違いない。
文字や数字が読みこなせることは必須であるが、そこにあるはずの声も聞き逃さない。
人として大事なことが何なのか読み進むうち身に沁みて知ることになる。
さすがノーベル賞作家である。