KORANIKATARU

子らに語る時々日記

後姿にくっきり浮かぶ幸福のシルエット


風呂あがり歯を磨く長男の背中のラインに見入ってしまう。
ちびっ子当時の面影でもって子に接してきたが、もはや庇護される存在ではないと背中が語る。

何をどうすればこうまでがっしり重厚な後姿、何でも跳ね返しそうな強靭な体躯が出来上がるのだろうと目をやりつつ、体力を引き出して強化することが子育ての本質なのかもしれないと思い当たる。

二男は二男で春期講習で骨折りの課題群と格闘する日々である。
奮闘余儀なくされる流れの中、内的なエネルギーが更にフツフツたぎるのだろう、中学に入れば空手を始めると新領域への野心をのぞかせる。

朝から晩まで走らされようが、夜明けから深夜まで勉強に追われようが、もはやメソメソすることなど一切ない、それどころか陽性のリアクションでかっか笑いながら持久する我が家の子ら二人を思い、我が身の不甲斐なさも帳消しだと手放し喜ぶのであった。

男子がいると何と頼もしいことだろう。


春の陽光注ぐコンビ二で土方の兄さんらがコーヒー入れつつ談笑している。
屈強そうな背中が頼もしい。

現場に向かう前、景気付けにコーヒーを携える。
何とも明るく、力強い様子であり、新たな一日を迎える清々しさのようなものがこちらにまで伝播してくる。

要は、体力だ。

メソメソのつけ込む隙など一分もない。


男は顔ではなく後姿である。
そこに、体力が現れる。

体力あれば、陰気なメソメソと関わりになるようなことがない。

つまり、幸福は、男の後姿に関係している。
背中を見ればピタリと当たる。

わざとらしく作為的に造形された後姿、そのような企まれたバッタもんでは意味がない。
積み重なる風雪の時間をくぐり抜け、にっこり顔出したような肥沃さたたえた後姿が、幸福を左右する鍵となる。


何事であれ、幼少時においてはメソメソもあった我が子たちであった。
しかし、それら乗り越え、いつの間にか何であっても乗り越えるのが当たり前になった。

何とかなる。
耐性という名の自信が根付いた。
それら含めて体力と言えるだろう。

体力という概念は精神性までをも含み持つ。


体力が肝心であると、シンプルに子から学ぶような思いとなる。

私自身の春のテーマはこれで決まりだ。
体力増強。

仕事のペース落とさず、水泳の回数を増やし、映画をたくさんみて、皆と酒を飲む。
あれもこれもやってこなして、幸福感度更に増す、ワンランク上
の体力を目指す。

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