KORANIKATARU

子らに語る時々日記

金持ち御三家と理想の嫁2


先日の東洋経済が「21世紀の資本論」特集であった。
以前、朝日新聞のオピニオン欄で著者のトマ・ピケティのインタビューを読み興味惹かれていた。

資本収益率は常に経済成長率を上回る。
過去200年に渡って主要国のデータを調べた結果得られた結論だ。

ならしてみたとき資産はおおよそ5%の利回りで増えるが給与は1%しか増えない。
どれだけ能力身につけ頑張って働いても、金融資産を持っている人の富の増大には追いつかないということである。
富める者はますます富み、貧する者は追い付きようがなくますます貧していく。

特に日本においてこの傾向が顕著にあてはまるという。
近年の経済停滞で中間層が減少の一途をたどり、一握りの富裕層を除き、日本は皆で貧困化していくような社会となりつつある。

うかうかしていると目も当てられない貧困が待っていて、それはちょっとしたきっかけで誰の身にも降り掛かってくる。

中途半端な資産しかなく給与だけを当てにする生活は、リスクを直視すれば心もとないことこの上ない。


先日、一人の人物の凋落を目の当たりにした。
あざとく立ち回りすぎたのか信用を失い、長年の取り引き関係が一気に断たれた。

心機一転出直しだと意気込んだところで、本人にはこれといって経済的な収益生み出すスキルも技術もなく、カラダが資本といってもたいがいな歳であり、散財する人生だったので食いつなぐための資産すらない。

これほどに空虚なことはなく、そして、うっかりするとこのような行き止まりに誰もが直面しかねない社会なのである。

ますます剣呑な雲行き、暗雲深まるかのような21世紀と言うしかない。


日本の文明は危機に臨んでいる。
毎日新聞にあった山崎正和氏の言葉である。

日本では本が読まれない。
本の需要が激減している。
「読む層」と「読まない層」が乖離し階層化している。

ポピュリズムとも言うべき稚拙な民主主義の暴走を制御できない社会がいつ到来してもおかしくない。

経済的な格差が更に極まり、不平等感の鬱屈が「読まない層」のイージーな即席思考と結びついて行く。

身も蓋もないような過激思想が大手振ってのさばる社会が、すぐそこまで来ている。


牛丼チェーンで食事するとき、ついついそこのスタッフの仕事に目がいってしまう。

果てしない消耗戦。
地獄絵図に見えてくる。

経済合理性を突き詰めれば、人を単なる機能とだけ見て限界まで「使用し尽くす」ような使役の仕方となるのだろう。

早い安い美味いのうち、美味いはともかく、早い安いのために捧げられる犠牲の悲惨に思い寄せれば、早い安い、などそんなものどうでもいいことのように思えてくるが、そのサービスに献身することでしか食い扶持を得られない立場もあるのだろうと想像すれば、そのあり方を一概に否定するわけにもいかなくなる。


私が密か金持ち御三家と呼ぶ家がある。
私からすれば、ずば抜けた金持ちである。

おそらく日本にはもっとたくさんの、果てしないギャラクシーな金持ちがわんさかいるのであろうから、全体からみればその御三家など可愛いようなレベルだと言えるかもしれない。

それでもちっぽけな私からすれば、そんな資産をどうやって築いたのだと酩酊感覚えるほどに遠く遠く巨大な存在だ。

所有する収益物件の上がりだけで一族全員食べてゆける。
それなのに、仕事もするものだから、お金は更に増えていく。
それで、ビジネスというフレーム以外ではあまり派手にお金を使わないので減る事もない。

金持ちであっても顕示的でないのは、周囲の気持ちへの配慮があるからに違いない。
誰だって見せびらかされていい気がするものではない、ときちんと弁えている。

このあり方に重大なヒントがある、と私は当て込み、ちっぽけながらも取り入れていこうと思うのだ。

それで身なりの軽量化をはじめることにした。
手始めに普段使いの時計を子らとお揃いのG-SHOCKにした。
次に、眼鏡をレンズ込みで2万のものに変えた。
その眼鏡だせえ、と家族には不評であるが、私は平気である。

大の男が身なり気にするなんて昔からいわれる通り、ちんまいことだと心から理解できているので、だっせえ、と言われれば少しくすぐったくらいの嬉しさを覚えるほどだ。

そして、このようなささやかな実践は、すべて子らに見せる実物の見本として意識してのことである。
こんなもんでええんちゃう、と父は我が身で提起しているのだ。

身の程わきまえた経済観念といったものは、親が実践してこそ子に伝わるものだろう。
そして、それは何としても子に伝えなければならない。
身の程を履き違えた子の成れの果てほど痛ましいものはないからである。