1
今朝5時。
長男がリビングのソファで臥せっている。
夜通し試験勉強し力尽きたのだろう。
声をかける。
寝るのか起きるのか、どっちだ。
長男は言った。
いま頭の中で数学の勉強をしている。
寝ぼけての戯言なのだろうか。
長男の様子をしばし眺める。
どう見ても寝ている。
しかし、頭の中までは覗けない。
そのようなイメージトレーニング的な勉強の仕方もあるのかもしれない。
6月下旬にしては冷える朝である。
長男にかけようとタオルケットを持って戻ると、彼はすでに起き上がっていた。
もう学校に行く。
電車で勉強を仕上げる。
何とも頑丈な奴である。
私は彼の父。
今日現在、長男よりほんの少しだけ背は高い。
しかし間もなくあっさり追い抜かれてしまうことだろう。
喜ばしい。
2
昨日の帰途、本屋に寄った。
自分のために何冊か選び、子供用にまんがで読む名著「資本論」を買った。
子らの試験期間中の骨休め、お風呂で読むのにもってこいだろう。
電車を待つ間そして乗る間にページをめくる。
マンガだからあっという間に読み切れる。
チーズ職人の息子が主人公だ。
手作りのチーズを息子が町で売る。
味が評判を呼び売り切れ続出。
そこに資本家が目をつけた。
そのチーズをもっと多くの人に味わってもらいましょう、と資本家が主人公に持ちかける。
主人公は若い青年。
金持ちになりたいと願っている。
お金さえあれば、母さんを助けることができた。
父の反対を押し切り、主人公は資本家の甘言に乗る。
資本家の出資を受け、設備を整え人を雇い大量生産に着手した。
しかし、思うようには物事は運ばない。
労働者の仕事の覚えは悪く、隙あればすぐに手を抜く。
ここで資本家が労働者の目付役を派遣する。
この目付役が殴る蹴るして労働者を徹底的に働かせる。
利益を上げるには人をこき使うことが必要だ。
儲けとは、すなわち労働者の成果を搾取することである。
主人公は、ビジネスの真実を身を持って学ぶことになった。
そして、葛藤に苛まれる。
一体何のために、金持ちになりかったのだ。
そう自問する。
「肉体労働のような苦労もなく、金持ちのような欲望や嫉妬に悩まされることもない、中間の暮らし、こそ人間にふさわしい」
母の遺言が心に蘇る。
主人公はビジネスから手を引こうと決意する。
しかし、時すでに遅し、であった。
資本家は甘くない。
主人公自身だけでなく、資本家が手を回し父は保証人とされ村の農場も何もかもが担保に入れられていた。
出資されたお金を返し切るまで、手を引くことなどあり得ない。
それが主人公が直面した現実であった。
3
中学生となったのであるから、社会の実相の一端について知ることは是非とも必要なことであろう。
イケイケドンドンで右肩上がりだった高度成長は遥か昔、浮かれ踊ってウキウキルンルだったバブルの時代も過ぎ去って久しい。
経済は低迷したまま、債務は膨れ上がる。
悪循環を断つ起死回生の政策も産業の登場もない。
その気配すらない。
ツケの伝票は、すべて若者に回される。
ウカウカしていると、辛酸なめる立場になるのは確実だ。
搾取といった程度で済む話ではないかもしれない。
小突かれ怒鳴られ仕事でヘトヘトになるだけだったらまだマシだ。
悪循環極まれば、いつか来た道。
人間にとってもっとも悲惨な阿鼻叫喚の世が再来しないとも限らない。
先日、ルソン島の人肉食の話を聞いた。
兵士が、弱った同胞の兵士が死ぬのを待って食う。
もしくは、殺して食う。
乾燥させて持ち歩いて、何度も食う。
まさに極限の鬼畜の世界。
ついこの間、70年前のことである。
まさか、そんなこと。
平和な日常においては想像すらできない、あり得ない。
豊かさが維持されなくなったとき、社会がどのような方向に突き進んでいくのか。
金持ちケンカせずとは正反対の事態について日頃から想像巡らせるべきことだろう。
若者の立場はますます窮し、希望は見えず、ハードにこき使われて気力も失せて、好き放題、むしり取られる。
日本が結果的に若者にとても冷たい国になりつつあることを知った上で、先々の処し方を今から考えておいたほうが身のためだろう。
机上の空論ではない、サバイバルするための実際的、現実的な方策が必ず必要となる。
杞憂に終われば、それはそれでめでたいことであろう。
4
帰宅する。
二男が一階の和室で学校の宿題に取り組んでいる。
場所を変えれば気分も変わる。
学校の数学がとても分かりやすいと言う。
私が習ったのは30年ほども前のことであった。
その教師の若かりし頃を思い出す。
いまだに授業の場面を断片的に覚えている。
確かに分かりやすかったし、へーなるほどと感嘆させられたことも一度や二度ではなかった。
厳しい一方で人柄のいい先生が数多く、いまもその良き伝統が受け継がれているようだ。
二男の合格発表のとき、恩師のお一人が目の前にいた。
お礼を述べ挨拶したのだが、先生の第一声は「お母さん、元気か」という気遣いの言葉だった。
お世辞にも俎上に上がることなどあり得ない田舎者のオカンについて触れて頂いたことが嬉しく私はじーんと来てしまった。
このように、どのエピソードを取り上げても先生らの人柄の良さに思い当たることになる。
5
いまは、サザエさんのごとく牧歌的ですらあるこの日記も、世相によっては様変わりするのかもしれない。
今現在は、カツオとタラちゃんがいて、サザエさんもいる家庭。
カツオとタラちゃんが、強く逞しくサメやシャチに変貌していけば、もはやこの日記はサザエさんではあり得ないだろう。