1
今朝の朝日新聞25面、マートンがいい事言っている。
その昔、尼崎のコストコでマートンを見かけた時、ごく普通の振る舞いができる知者であるとお見受けしたが、彼はやはり芯のあるインテリだったのだ。
マートンは、尊敬する両親からスポーツも勉強も大切だと教えられてきた。
その影響を受け、彼は人格形成プログラムで知られる名門ジョージア工科大学に進学した。
そこではスポーツに取り組む学生を支援するシステムが整っていた。
厳しいノルマを課される学業だけでなく社会貢献や将来の人生設計、ビジネスマナーなど人生に必要なノウハウを徹底的に仕込まれた。
また、経営者からホームレスまで様々な境遇の人と交流する機会も与えられた。
そこで得たのはスポーツができる状況への感謝の念だった。
マートンは言う。
人生でスポーツができる期間は限られている。
教育を受けていれば、より良い経験ができ、多くの可能性の道が開ける。
1つの小さな世界に閉じこもることは危険であり、教育がその殻を破って違う道もあると気づかせてくれた。
2
堂島付近の交差点。
背格好も年格好も同じくらいに見える女子二人が前を歩いている。
信号待ちで横ならびとなり、ちらと目をやった。
歳の差は明瞭だった。
どうやら母と娘のようである。
会話からもそううかがえる。
母は美しく見れば見るほど間違いなく美しく、一方娘の方は、父親に似たのだろうかひとし並。
しかしそれでも、何だか品があってとてもチャーミングだ。
少しの間、並び立って歩く。
雰囲気がいい。
上品だ。
母には知性と洗練が備わり、それが娘にもまっすぐ受け継がれている。
そのように見える。
ワンツーパスが見事決まったみたいな、まるでお手本のような母娘であった。
おそらくは教育があって、スポーツ競技や稽古ごとなど、訓練を経て身に備わった芯のようなものが両者に共通しているのだろう。
それが、良き雰囲気となって醸しだされている。
先日はアニマル京子が理想だと書いたが、君たちの伴侶としては、このような方でもいいのではないだろうか。
試練と課題をスキップせずきちんとプロセス踏んできた人間には、最低限の信頼感のようなもの、敬意を感じることができる。
そのうえチャーミングであれば、もうそれ以上何を望むことがあるだろうか。
3
大学までエスカレータで学業の心配はいらず、だから勉強などすることもなく、大人顔負けのレベルで自らを装飾することと男子だけがもっぱらの関心事で、要は妊娠だけはせぬよう青春の男女交際をエンジョイし、大学では名門大学のサークルにでも入って配偶者を物色すればいいといった考えの、いつまで子供でいる気なのだかしれないようなキラキラネームの女子については、事がそうそう上手くいくのかどうかはさておき、マートンの話を噛んで含めて聞かせたくなってしまうところである。
キラキラ女子力の光沢はかげろうの寿命のごとく儚い。
まずは目を見開いて、眼前繰り広げられる現実を直視することが必要ではないだろうか。
マートンが様々な交流を経て価値観を研いで感謝の念に至ったように、はるか以前から知っておかねばならなかった何かに気づくことになるはずだ。
こんなはずではなかった、と過酷で孤独な労役に従事する女性のどれだけ多いことか。
どう言い繕おうが、その労役は面白くとも何ともなく、自尊も充実も達成も何もなく疲弊と呪いの小言だけが募っていく。
肝が冷えるようなその現実の一端を知らねばならない。
「元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である」と平塚らいてうは百年前に声をあげたが、いまや月でさえないと皮肉に笑う女性は21世紀において山ほどあるだろう。
子に対しては、ファンタジーはほどほどに、厳酷な世の有り様についても告知せねばならないだろう。
この先の行程はげんなりするほどに起伏に富み、だから当然生易しいものではなく、もちろんおんぶにだっこで済むはずもなく、自らの足で立って歩いてそして歩き続けなければ渡り切ることができない。
少しでも幸多かれと願うのであれば、自らの足腰を鍛錬するしかない。
その足腰の鍛錬にあたるのが何なのか、マートンの両親がしたように、親は子に示唆すべき役割を負うのであろう。