KORANIKATARU

子らに語る時々日記

お金と人を天秤にかけるメンタリティについて


日曜午後、仕事場界隈をぶらり一人で散歩する。
空は晴れ渡りぽかぽか陽気。
一歩踏み出すごとに心がほぐれる。

梅田界隈に差し掛かり、買物袋提げた人だかりをすり抜けていく。

私自身は繁華街を行くような格好ではない。
安物のジーンズに着古したフリース、ウォーキングシューズは更に古くて踵のラベルが剥がれ落ちている。

どちらかと言えばみすぼらしいがどれも愛着あって身につけている。
所詮しがない書類屋稼業、こんな程度がお似合いだ。

いまさら物欲もないし、金銭欲もない。
日々の務め果たして心穏やか過ごせればそれで十分満足である。

四方八方から人が押し寄せ、歩幅もペースも異なるので、梅田界隈はまっすぐ歩くことさえ難しい。
骨折りながら人をよけジグザグ不規則に歩くしかない。

私のような呑気者が迷い込むようなところではないと悟ってそそくさと周縁部へと退避した。


金と人を天秤にかけますます金に軍配が上がる世相なのだろうか。
お金目当てで人を殺めるといったおぞましいニュースが絶えない。

表沙汰になっていないだけで、日本中見渡せばお金と引き換えに命奪われた方は他にも少なからずあるのだろう。

なにしろお金は分かりやすい。

手を合わせても神様は願い聞き入れてくれるかどうか定かではないが、お金はたいていのことを叶えてくれる。
ご利益が分かりやすいので、多かれ少なかれ誰もがお金に帰依する中、信心ますます篤くする者が生まれても不思議なことではない。

特に、その「現世利益」を必需とするような環境にどっぷりつかれば、お金またはそれにまつわるもの以外に欲しいものなど浮かばないというくらいの狂信者まで現れることになる。

この世で一番頼りになるのは、仮面ライダーでもウルトラマンでもない、ヒロイズムなど幼稚くさくて唾棄の対象、おキャネが全て、おキャネおキャネ様様という世界観が形成されることになる。


人はどうせ死ぬ。
金は死なないが人は死ぬ。

誰もが死期を迎えるのだから、それを少しばかり早めたからといって何の不都合があるだろう。
その分優しくするのだからむしろ本望だろう。

お金狂信者のロジックはそのような結論に達するのかもしれない。

そうと決まれば、善は急げ。
看病やら介護やらといった手間を省いて手っ取り早く死を導き寄せ効率的に人をお金に換金する。

その効率を極限まで追求すれば、「即席夫婦」という究極モデルが編み出されることになる。
夫婦の時間を早回しし、望むエンディングに持っていく。
さっさと夫を殺して、有り金を懐に入れ、金の切れ目が縁の切れ目でジ・エンド。

そしてドリフの掛け声みたいに、さあ次いってみよー。

何とおぞましいことだろう。


私が初めて手にしたお金は祖母から貰ったお小遣いであった。
幼少の頃は、50円や100円だった。
中学や高校生になる頃には、貰えるお小遣いの額が千円単位となり、一万円となることもあった。

ただ私は祖母らが行商や仕立直しなどで生計を立てている様子をこの目で見ていたので、それらお金の重みは子供ながらにずっしりと感じていた。
どちらの祖母も自分のためにお金を使うような人ではなかった。

稼ぎも知れていただろう。
そんな中、せっせとお金を貯め、私たちにお小遣いをくれていたのである。
その千円や一万円は、単なる紙切れでは決してなく、まさに血の通った精神的な何かであった。

私は肌で知っている。
お金には来歴がある。
様々な人の手、ささくれた手や節くれだった手を経て、渡って来る。
当然、そこには色々な思いが籠っている。

とてもではないが単なる数量として見ることはできないし、だから当然それをおもちゃみたいに粗末に扱うなど考えられない。

数値としてではなく、そこに畏怖すべき「人の匂い」を少しでも感じれば、金と人を天秤にかけること自体あり得ないことであると私は思うが、少しナイーブ過ぎるだろうか。