KORANIKATARU

子らに語る時々日記

他人の思想に支配される窮屈


ちょうど一ヶ月前の土曜日午前、二男を乗せてクルマで出発。
バブル極まった80年代終盤、一世を風靡したポップスターRick Astleyの曲を流す。
入試本番一週間前、いい気なもんだといったような空気が車内に満ちる。
肩の力を抜くにはちょうどいい。

Rick Astleyがシャウトする。
♫ I would move heaven and earth o be together forever with you ♪♪

そうそう、大の男でさえこんな風にシャウトする、それほどめでたい時代であった。


塾での勉強に備えて、腹ごしらえ。
西宮山幹沿いにあるラーメン魁力屋に立ち寄った。
ハードな勉強が続くのであるから、持ちこたえるには炭水化物が不可欠だ。

男差し向かいで食すラーメンには無尽蔵のエネルギーが宿って真冬の冷気を跳ね返す。
二男とともにチャーシュー麺大盛りをペロリと平らげた。


前夜観た映画「グッバイ、レーニン!」について二男に話す。

89年と言えば日本においては昭和が終わった年であるが、ちょうど世界も大きく動いた。
遠い海の向こう、89年11月9日、ドイツではベルリンの壁が崩れた。

前世紀は共産主義という理想論が世界を席捲していった時代とも言える。
実際に、その理念が人々を突き動かし、社会を司り、人々の暮らしを変えた。

新旧の価値がせめぎ合う場としての象徴が、ベルリンの壁であった。

主人公の母は、模範的な共産主義者である。
彼女は壁の向こう、西側世界を哀れんでいる。

資本主義によって生存競争を余儀なくされ、無為な物質の消費に明け暮れるだけの世界。
彼女にとって西側は、大切なものを見失った憐れむべき人々の世界でしかなかった。


しかし共産主義が現実の社会にもたらしたのは圧政と抑圧であり、東側に置かれた人々はもはや共産主義を信じることができなくなっていた。

先を争うかのように、人々が共産主義を捨て始めていく、そのような時代背景を映画が描く。

共産主義とでも言うべき改革の動きが結実しベルリンの壁崩壊へと至るのであるが、その崩壊の渦中において、主人公の母は街の通りで倒れ病院のベッドで昏睡したまま、つまり何が起こったのか知らぬまま過ごすことになる。

心臓に疾患がある、精神的な打撃を被るような事態がこの次起これば、お母さんの命は危ない。
主人公は、医師にそう宣告される。


主人公は母の命を守るため現在進行で生じつつある激変を母には悟られまいと大芝居を企むことになる。
なにしろ、母は模範的な共産主義者である。

東側の人間が雪崩打つように西側へ流れたと知ればショックを受けるどころの話ではない。

主人公は、その逆、つまり西側の人間が東側へと、新たな人生を見出すために押し寄せたと、母に信じこませようと、あれやこれやと手を尽くす。

その苦心と工夫のプロセスがユーモラスであり、この映画に不思議な可笑しみを与える。


しかし結局は、母は主人公の苦心惨憺に気づくに至り、だまされたふりをし続けることになるのだった。

互いにウソをウソだと知って、しかしそれを互いに信じるふりをし続けるという構図が続く。

ウソをウソだと言わずお互いそのウソを信じるふりをする。
これこそまさに共産主義の本質、その末路であった。

人は自らの本性にウソをつき続けることはできない。
理想論が掲げられ、その価値を強要されたとすれば、これほど息苦しいことはなく、もうこれ以上嘘を糊塗できないという我慢の限界に達するのは時間の問題であろう。


ラストシーン、母の遺灰が花火となって打ち上げられる。
花火の炸裂音が、爽快に、まるでグッバイ、レーニン!とシャウトしているかのようである。

他人の思想に支配されそれを理想としなければならない欺瞞について、見事ユーモラスに描いた映画だと言えるだろう。

何も共産主義ばかりではない。
私達は他人の思想に包囲されている。
会社だって学校だってテレビだってアメンボだって。

道頓堀で高速を降りる。
上六の塾までもう目と鼻の先だ。

Rick Astleyが再びシャウトする。
♫  I just wanna tell you how I'm feeling. Gotta make you understand ♪♪

自分の価値をシャウトする。
そこまでめでたい男になることもないけれど、自分固有の価値というものが揺らがず内に備わること、それこそが男子心得の最初にくるべき項目であろう。


塾の入口へ向かって走る二男の背中を見つめる。
中へ入る間際、二男がこちらを振り返る。
目が合った。

お互い目で語り合う。
ラーメン美味かったな。

ウソの入り込む余地のないパーフェクトな以心伝心であった。