10%オフとなるクーポンをプリントアウトし、駅前の串かつ屋へ向かった。
店は混み合っている。
依然引き続き人気衰えぬようである。
予約なしでは席にありつけない。
テーブル席に腰掛ける。
前に息子二人。
写真を撮って家内に送る。
右隣りは家族4人連れ。
両親と中学生の娘が二人。
父親はお酒の飲み過ぎか血色悪く、母親の化粧は熱帯原生林に生息する昆虫みたいであって、どちらもともに場末感満載である。
娘を前に、また横に他人が座るのにもお構いなし、その両親はタバコをふかす。
困惑の視線を送りたくもなるが、ここは串カツ屋。
そういうところなのだから仕方ない、と息子らに説明する。
左隣りは父子連れ。
上座に息子が座るが、高校生だろうか、これが精悍、なかなかの面構えでいい男。
部活で鍛えたカラダが逞しく、こんがりとした日の焼け具合が頼もしい。
口数少ないそのおやっさんからすれば、プライドそのものといった存在なのであろう。
揃って焼きそばを食べる姿にエール送りたくなる。
串かつを筆頭に、子らが数々注文していく。
わたしはサッポロ瓶ビールをぐびぐび飲みつつ、ときおり料理に手を付ける。
結構美味い。
この店の集客の秘訣はこの味にある。
子らはガツガツ食べていく。
部活や学校や友人やカナダや映画や話題は尽きず食欲はやまず、酔ってわたしの声も大きくなるので、タバコ家族は遠景へとたちまち追いやられた。
左隣の客が変わって、若きミュージシャン風情の二人連れとなった。
楽器について話すみたいに猥談が始まった。
しかし、とてもつまらない。
その聞えよがしな内容があまりに貧相で心なく思いやりを欠いたようなものなので哀れにさえ思えてくる。
視点が幼稚で考察乏しく、人類男子の風上にも置けない浅ましさ。
子らとともに苦笑する。
せっかく飲んで向かい合ってこのテーマについて即物的な調子でしかやりとりできないのであればドライにもほどがあって暗澹となる。
串カツ屋は社会勉強の場としても機能する。
世の家族がどんな風であるか垣間見ることができ、飲んで普通の男子がどのような話をするのか知ることができる。
そのように隣席について言及しつつサバイバルについて話し合う。
地震列島日本の行く末は楽観を許すものではない。
人口は減り続け、子はおらず、人手を頼むにしても外国人しか頼るあてはなく、社会保障費は膨れ上がるばかりでババ抜きの巨大なババはそれが当然といったように将来世代に先送りされ続け国家財政の破綻が現実味帯び、後始末的な業務をのぞき経済を牽引するようなめぼしい産業の登場する気配はないので、そうだ観光に注力しようというほどに切迫しつつある。
衰退していく井の中の蛙どうしで、どこの大学がいいだの言っても始まらない。
狭いニッポンどこの大学に入ったところで通過点としての多少の良し悪しの話に過ぎず、それで職業的成功と経済的自立が約束される訳はなく、肝心要はその先の先にある。
幸せになるため必須のお金に困らぬ経済力を得ることだけでも簡単なことではなく、どこの大学がどうだこうだと周囲がざわついている間に地に足つけて、人一倍勉強しつつ先の先について幾通りも道をイメージしておく必要があるだろう。
もはや親にも見通せず、答えは日本にあるとは限らない。
町の光景、映画の一シーン、誰かの会話、ちょっとした新聞記事、どこにヒントがあるか分からない。
自身を鍛えて目を光らせて、ボールが来た時に反応できるようもう準備を始めねばならないだろう。