西九条で大和路線に乗り換えた。
朝からぐずついた空模様であったが午後にはすっかり晴れ渡り、春の日差しがとても新鮮に感じられた。
降り注ぐ光を四方に跳ね返し安治川の川面が賑やか華やいで見え美しい。
想像してみる。
もし万一、自身に死期が迫っていたとしてそれを受け入れ腹を括っていたとしても、こんな風景を目にしてしまえば一気に心は揺れて抑えようがないのだろう。
断ち切ったはずの生の側への憧憬が、再浮上してしまうに違いない。
日常を切り裂くように、時折、息を呑むような美しい光景が立ち現れる。
そのたび生きて在ることの奇跡を思い知ることになる。
と、香ばしい匂いが間近に迫って現実に引き戻された。
車窓とは反対側に目を向ける。
隣席に座る何の変哲のもない浪速のおじさんが豚まんを食べ始めたのだった。
そんな凡庸な場面に宿って漂う生の匂いにかけがえのないものを感じ、わたしは豚まんにさえ感慨一入となった。
生きているだけで丸儲け、という言葉はまさに至言だろう。
そう思って目の奥に焼き付いた川面の光について更に考えを巡らせた。
たとえばわたしが生の側にいるとして、もし万一、大事な誰かを失っていたとしたらその景色を愛でることはできるのだろうか。
目に映る世界は美しく、しかしあの人はもういない。
そうであれば、ただただ辛さ募るばかりであるに違いない。
恐怖すら感じる。
何を目にしてもその不在を思い出し極限の寂寥に苛まれる。
やはり結論はいつだって同じ。
死地への出立は世代順で年齢順。
絶対に追い越し禁止。
これは必ずそうでなければ困るので乞い願っておかなければならない。
年度末の3月、仕事がたて込み忙しい。
が、忙しさが自身を鍛え直してくれる。
新年度4月という開幕に備えキャンプインして強めの負荷でカラダをしっかり作っているようなものである。
だから土曜も日曜も仕事に明け暮れるが、谷深ければ山高しであるので嬉しい限りということになる。
業務を終え久々この夜は正宗屋に寄った。
土曜だからだろう、混み合っていて相席となった。
案内されたのは四人テーブルの一角だった。
隣席は若い男女連れ。
わたしの右隣が男性で斜め前が女性という配置で、わたしの対面には、かそけき気配の初老男性が焼きたらこ一品だけをつまみにし独りひっそり冷や酒をあおっていた。
若い女性一人がのべつ幕なし喋っている状態のなか、聞くともなしその話に耳傾け、わたしは正宗屋の定番メニューをあてにビールを飲んで冷酒を飲んだ。
どうやら男女はともにフリーターであるようだった。
明日の日曜もバイトが入ってゆっくりできないと女子が愚痴を言い、男子が仕方ないさと言葉少なに相づち打つ、といった単調な会話が繰り返されていた。
女子が言った。
ああ、ただただ寝転がってテレビだけ見て過ごす日曜を送ってみたい。
それが夢。
男子が言った。
いい人見つけて専業主婦になればいい。
女子の目が輝いた。
毎日が夢の日曜日になるかもね。
正宗屋の料理は絶品である。
おでんとまぐろの刺身からはじめて、いいだこ煮を忘れず、これでたこに魅了されるからたこの刺身も頼むが500円ではあり得ない美味しさであり、続いて串は鳥皮と軟骨を注文した。
心穏やか、斜め前の女子の夢が叶いますようにといった気持ちになるのであったが、とぐろ巻くようなまつげが奇異であり、ベタベタ塗った爪がやはり不潔に映って変であった。
赤の他人であるから口は挟まなかったが、世界はすでに美しく、夢の実現のためまずはその浮きに浮いて自意識過剰な美意識を引っ込めてみることから始めた方が良く、もしそうすれば、意外と簡単に生涯をともにする働き者を仕留められるのではないだろうか。
その場では言えなかったので、ここで言っておくことにする。