眼前に週末。
だから金曜日になるとホッとする。
平日と週末のどちらかを選べと言われたら、自分に嘘はつけない。
腰に手を当て迷いなく週末の方をわたしは指差す。
子どもの頃からそうだった。
土曜日は半日で終わって、学校からの帰途、胸は喜びに満たされた。
その喜びはカラダに刷り込まれているとも言えるだろう。
しかし、それほどの喜びをもって迎えた週末であったはずなのに、結局はぼんやりと過ごすことの方が多かった。
振り返ってみてどの週末も似たような顔をしていて残ったものは何もなく、つまり無。
わたしは無為を喜んだのであろうか。
先日、スポーツ一筋に打ち込んできた方と話す機会があった。
幼少から社会人に至るまでのハードな日々について耳を傾け、思った。
エピソード満載で話が尽きない。
たいへんなことも多かったが補って余りあるほど喜びの方が大きく、それをいまも仲間と分かち合っているから引退してなおイキイキとしている。
それを機会に、わたしは人生の濃度について考えることになった。
薄い人生があり、濃い人生がある。
もちろん一長一短あって一義にどちらがいいと決めつけられる話ではないが、中身を伴って喜びに溢れていれば、過去を振り返って空虚を見ることはないだろう。
だからエピソードの多寡と濃淡といった点に着目すれば良き週末を得るための必須の要素についておおよそ察しがつくように思う。
平日は真面目に働き、週末は休んで何であれ動き回り、一人より少なくとも二人以上で過ごす。
例えばそんなところだろうか。
我が身を見れば五十を過ぎてようやくそんな要素が整いはじめた気がする。
そう思うとホッとするより心が騒ぐ。
明日から週末。
子どもだった頃より更に胸を弾ませ、その濃密な懐に飛び込んでいく。
刷り込まれる喜びはだから一層深くなる。