人間だって光に吸い寄せられる。
夜空を照らす街の灯がクリスマスをピークにたわわに実って、都内はどこもかしこも人で溢れ返っていた。
わたしたちは大手町を皮切りに麻布台を経て表参道へと至り、光を見上げ続けて疲労と空腹を覚えたので、そこで夕飯をとることにした。
ダメ元で電話した希須林にたまたま二席の空きがあった。
なんてラッキーなことだろう。
店に入って家内と向かい合って腰掛けた。
クリスマスだからだろう。
赤い服の女性が目立って店内も店外同様の華やぎに溢れていた。
スパークリングで乾杯し、家内が定番どころのメニューを頼んでいった。
二年前に訪れたときも感動したが、この日は更に美味しいと感じられた。
そして家内と再認識したのだった。
名店では、美味しさが押し寄せてくる。
口をもごもごとさせ首を傾げ、美味しさの所在を探しに行かずとも、向こうから否応なく美味しさがやってくる。
美味しさの待ちぼうけを食らうことがないから、人々は何度も再訪し、結果、名店が生まれることになるのだった。
食事を終えて、続いては銀座に向かった。
家内が昼にエルメスに立ち寄って、夜に「SPARK IN GINZA」とのイベントがあると聞き、それを見学しようとなったのだった。
エルメス横のソニー通りが会場だった。
道の両側に幾つも設置された発生機から無数のシャボン玉が絶え間なく宙へと噴射され、夜空を舞った。
そこに色とりどりの投光が為されて、シャボン玉がまるで冬の夜空を彩る花火のように七色に輝いた。
その光を人々が惚けたように見上げて歩き、一歩離れた舞台袖からそんな様子を眺めてわたしは思った。
人もまた露の命のシャボン玉みたいなもの。
そう思ってみれば、まさにこの通り自体が一種の芸術表現の舞台と見えて、夜空を飾る刹那の美が人の本質を告げ知らせているようなものなのだった。
ああ、わたしたちはシャボン玉なのだ。
そんな儚くも清々しいような真実がビジュアルで心に焼き付いた。