KORANIKATARU

子らに語る時々日記

一生勉強

正月元旦、親戚らが会する中、ゲームに興じる子供達を尻目に勉強をし始めた長男は奇異に映ったようだ。
一体全体元旦から、何事だと。正月に勉強する必要があるのかと諌めるような空気が漂った。

隙あればDSゲームに興じる子がいるように、暇あれば取りあえずボッーとテレビに見入る子がいるように、同じくらい自然な習性として、つい勉強してしまうというのは行動パターンとして誠に結構なことである。
人の目盗んでも勉強するくらいの習性が身について初めて、人間としての一歩を踏み出せるくらいのものだと考えていい。

かつてインドを旅したとき、ハイダラバードのホテルで夜中にビールが欲しくなり、従業員の詰所に向かったことがあった。
裏階段を降り、そこで眼にしたのは、勉強する緑服の若い従業員の姿であった。

階段に座って勉強する者、踊り場で寝転がって勉強する者、夜中の薄暗がりの中、勉強に夢中の彼らの姿は鮮烈であった。
言葉通じ難く、事情は察する他なかったけれど、テストのために一夜漬けで勉強しているという様子ではなかった。
日常として彼らは夜の待機時間に、一生懸命、勉強に打ち込んでいるようであった。

私がどこか遠くの惑星からやってきて、まっさらな眼でこの光景を見たとしたら、おそらく、人間という種族が他と一線を画す最も本質的な特性現れたシーンとして報告するのではないだろうか。

何とかビールが欲しい旨を伝えた。
しばらく後、緑服の一人がどこかから瓶ビール2本を調達し、密輸業者のような用心深さで部屋まで持ってきてくれた。
銘柄は忘れてしまったが、どこまでもぬるく、度の強いビールの味は今でも忘れられない。

あれから幾年月、彼らが勉強に取り組んでいた光景は一枚の写真のように胸の内に留まり、示唆に富むシーンとしてことあるごとに蘇る。
昨日、長男が元旦衆目の中、勉強始めたとき、久々にその場面を思い出したのであった。

そのような勉強を続ける日々を経て、人は脱皮を繰り返し見違えるような人物へと成長してゆく。
そして、勉強癖が身に付きつつある子の姿を、親バカ丸出しで、言祝ぐのである。

現在向き合う基本的な勉強を通じ、取り入れた知識や思考のモデルが内面奥深くで脈づき綾なして、知性が醸し出されてくる。
その過程で、いくつもの得意領域が見出されて行き、独壇場だという分野も生じる。

知性の勢力地図が確固拡大するということは、自らの真骨頂以外でも優位な活動域が複数得られるということである。
少し他者よりも勝つという領域ひとつで立つ瀬はできる。複数あれば笑いが止まらない。圧倒する分野があれば一角の傑物だ。

順位を競うというモチベーションが強力なエンジンとなる勉強はいつか、職業的可能性と優位さを盤石とするための勉強に変わる。
個人的な動機で始まった勉強が、仕事を通じ、人に喜ばれる固有の力の源泉となっていく。

勉強魂を五体に内蔵できれば生い先楽しい。
一朝一夕にはいかない。
身に染みついた習性となるくらい、虎視眈々すべての機会を捉え、風呂でも雑踏でも待合室でも食卓でもベンチでも、勉強することだ。