日々の仕事に忙殺されると、食べることだけが楽しみとなる。
美味なるものを讃える舌鼓が共鳴作用を起こし、喜びがワナワナ身中を駆け巡る。
疲弊し渇いた心身に、美味みのエキスが、温かな雨のように優しく降り注ぐ。
ちょっとお金を払えばどこでもこの雨は手に入り、いつでも濡れそぼり恍惚となることができる。
気を許すと、雨量は増すばかりだ。
もちろん理性が働き、歯止めをかける。
しかしながら、理性など、イトーヨーカドー駐車場のガードマンみたいなものである。
用もないのにそこに駐車しどっかへ出かけても咎められることはない。
理性はほとんど見て見ぬふりである。
食べることに歯止め利かすくらいなら、その分、運動してカロリー消費目指す方が取り組みやすい。
食欲を抑制するという後ろ向きの心遣いより、運動を促進するという前向きの心掛けの方が馴染みやすい。
そう考え、走ったり泳いだりするものの、更に腹は減り、余計に食べるという、堂々めぐりどころか、反復増幅する悪循環に陥っていくのであった。
その分、走力と泳力は体型に似合わず相当なものとなったけれど。
食べ過ぎを解決する明解で根本的な方法は、食べ過ぎを処置する、それを抑えるということにしかないのであった。
暗がりで落とした鍵を、明るい街灯の下で熱心に探すようなことをしていたのだ。見つかる訳がない。
本格的に「食べ過ぎる」自分と向き合わねばならない。
恵みの雨抜きでも平然と日々過ごせる自分を強くイメージしなければならない。
食べ物が浮かんだら、違う楽しみ、代替案をいくつも想起するのだ。
そして、食べ過ぎることへの罪悪感を喚起する。
ガツガツ食うなど罰当たりなことである。
過食美食は罪なのだ。
毎回毎回の食事に意識的になる。
食べ過ぎた後の、あの何とも言えない、気分優れない後味の悪さを忘れてはならない。
全部は食べない。
目に見えない存在と、与えられた食事を分かち合うようにしてして頂く。
お供えのような捧げ物として、いくらかの分量については手出ししない。
全部自分で平らげるといった、強欲な自分を放置してはらない。
そんな性分は一事が万事あらゆることに派生し、巡り巡って災禍をもたらす蛮行だ。
以前「正しい食事」というブログで書いた時点では、品位という言葉で自らを戒めたが、そこでは、「他者と分かち合う」という視点が欠けていた。
食事ひとつとっても視界の外にある森羅万象への畏敬の念をもって、自らが足りる分量だけを静謐な心持ちで頂戴するという姿勢を取り入れる。
そうしなければならない。
敬虔な信徒みたいな純朴さで、感謝の念をもって、与えられた食事を、「チョットだけ残す」のだ。
残せば残すほど、御利益は大きい。
追記1
会食の時などどうするかという質問があったので、回答。
「一品一味」「一皿一箸」主義で、ちょいと味見程度つついてついばみ後は他者に供することで多食を防ぐことになります。
追記2
以前始めたガラス張りダイエット、食べたものを包み隠さずアップする方法は、人目を意識化することで節度呼び起こす効果があったが、家事全部のプライバシーを晒すことになるため頓挫した。
どこへ出しても恥ずかしくない料理であっても、完璧でなければ公開するに値しないという家内の考えは尊重せざるを得ない。
しかし、チョットだけ残すダイエットでも、その人目意識化のエッセンスは強化継承されている。
何しろ、自らの運気をかけて、八百万の神の眼を向うに回すのである。不実なことはできない。