KORANIKATARU

子らに語る時々日記

あじ平の帰途で考えた。

週末、家内が予約したというので小路のあじ平へ向かう。
北巽のあじ平は予約が一杯、小路の方はたまたま空きがあったという。
千日前線の小路駅で降りセブンイレブンの角を西へまっすぐ進む。
歩いて10分弱。
夕方6時で既に結構な客の入りだ。

席に案内される。
ふと見ると真横に寝屋川の顧客がいらっしゃる。
偶然の鉢合わせだが、真横の距離では気詰まりだ。
挨拶をしつつ、店員に言って席を替えてもらう。
家内がちゃんとした装いをしていたので助かった。
もし下町のてっちり屋だと油断してルーズな格好していたら後で何を言われるか分かったものではない。

ゆびき、てっさ、唐揚げを頼み、ふぐ皮を皮切りに、白子、あら身を鍋にどんどん放り込んでいく。
何度食べても、てっちりはおいしいものである。
特に冷たいひれ酒はえも言われぬ風味だ。
うまいもの食べれば誰でも上機嫌、お店全体のムードがとてもいい。
ゆったりくつろいで河豚を心ゆくまで堪能できる。

食事しつつ話題にのぼるのは子供のことばかり。
長男についてああでもないこうでもない、二男についてあれやこれや、いつまでも話は尽きない。
子らの成長の一年一年が、そのまま我が家の成り立ちの物語になる。
生まれた時、プール教室、幼稚園に入ったとき、習い事、小学校に入ったとき、ああだった、こうだった、と回想シーンがいくらでも蘇り、この先の先の未来の思い出までも先取りして、話が膨らんでいく。

どこまでも平和で満ち足りた食事の光景が市内辺境の地で繰り広げられ、かたや、世相の方は、来るべき衆院選総選挙の話題でかまびすいい。
何が何やら訳が分からないほど数多の党が乱立し、似たり寄ったりの主張を喧々諤々戦わせている。

起死回生の一撃を放ち行き澱んだ日本の現状を打破してくれるのかもしれないとの期待を背負っていたはずの大阪発の政治家が、巨根幻想がいつまでたっても抜け切れないような東京の爺さんの後塵を拝する形となり、大阪に芽生えていた希望の風船はあっけなくはじけ、結局は威勢良く歯切れもいいだけの男にあやかってわしらは溜飲下げたいだけやったんやと多くの民が我に返ることになった。

誠実に語ろうとすればするほど、暗い話にしかならないのが今の日本である。
かつて栄華を誇った日本の製造業は競争力を失い、はじき出された労働者が、生産性の低い低賃金の産業へ流れていく。
人口は減り続け、世界最速の勢いで高齢化率が上昇する。
賃金は減り続け、競争は激化し、二極化の差はますます開き、天井知らずの報酬を手にする者が現れる一方で、大半の者の賃金は地を這う漸近線のように無限に下がり続ける。
税負担もどこまで増えるのやら想像もつかない。

過去の貯蓄はあるとはいうものの、それが何の役に立つのだろう。
今後景気が回復する見込みなどなく、不確実性増す世界において日本の地位は低下していくばかりである。
力を失ったものにカネを渡しても、ますます失うばかりであることは火を見るより明らかだ。
お金を刷れば刷るだけ、手持ちの価値まで下がってしまい、最後の虎の子まで跡形もなく消えてなくなるだけだろう。

抜本的な特効薬などどこにもなく、日本全体が後退戦を余儀なくされるなか、そこを突破する少数者が現れるなら現れるのかもしれない。
そんな覚束ない希望をつなぐしかないような状況だ。

さらに短期局所的な問題だけでなく、長期的には、人口増やら食料危機、異常気象や地球温暖化、石油や水、土壌などの資源の枯渇化など、推移好ましくない複合危機に地球が晒されている。

アーサー・ミラーの「セールスマンの死」を思い出す。
学生時代に読んだときは息子であるビフに感情移入して読んだけれど、いまでは切ないほど父であるウィーリーの立場がよく分かる。

ローンの払いに追われつつ、しゃにむに仕事し、悪く言えば大物幻想を持ち続け、良く言えば夢を追い続け、しかし、老い、見向きもされなくなり、固定給から歩合給になったあげく、長年務めた会社までクビになる。
ずっとずっと働いてきて、長い年月の挙げ句の果て、死んだ方がましという心境にまで追いつめられていく。
妻リンダが甲斐甲斐しく家計を切り盛りし、靴下まで縫い繕って倹約する様がウィリーの焦燥感をさらに際立たせる。

希望は、二人の息子ビフとハッピーだ。
しかし、あれだけ期待をかけていたのに、将来を嘱望されていたはずなのに、一体、どうしてしまったのだろう。
二人とも全く冴えない。
現実の壁に為す術がない。
職を転々とし万引きにまで手を染めたビフは「ぼくは1時間1ドルの人間なんだ」とウィリーに叫び、ハッピーはだらしない生活から抜け切れないままいつか第一級の男になると夢想するばかりである。

しかし、ウィリーは家族を愛していた。
八方塞がりのなか、自ら死を選ぶ。
この保険金がビフの事業資金になる、これでビフは再起できると歓喜するように死を決断する。

今の日本において、強い共感を呼ぶ作品ではないだろうか。
ウィリーは必死に頑張って生きてきた。
それが何かの拍子で、思ったようにことが運ばなくなる、描いた未来からどんどん遠ざかる、そのような現実を突きつけられてしまう。
それでも希望をつなぎ、家族を守るため立ち向かい奮闘し、気高い誇りも妻への愛情も子への期待も失わなかった。

ただ、何かが欠けていただけなのである。
友人のチャリーが葬儀の際、ビフに言う。
「ウィリーには基盤というものがなかった」。

てっちりの仕上げ、お店の人に雑炊を作ってもらう。
大満足の食事となった。
千日前線で事務所まで戻る。
事務所界隈では例の如く客引きのお姉さんがカモを物色している。
子とお隣の家族へお土産にたこ焼きを買い、家内の運転で自宅へ戻った。
阪神高速のオレンジの照明がいくつもいくつも通り過ぎていく。