年の瀬だから鍋。
仕事後、野田阪神の満海に寄ってトラフグを引っ提げ、十一屋で選んだスパークリングを手に携え帰宅した。
家内と手分けし夕飯の支度をし、包丁を握った。
が、フグを切るのに難儀した。
こんなに大変なものとは知らなかった。
わたしは一層こうべを垂れ、包丁を握る手に力を入れた。
今度買うときはあらかじめ店で切ってもらわねばならない。
台所での家内の日頃の労苦を思い、悪戦苦闘した。
準備整い、いよいよ鍋をセッティングする段に至った。
わたしは食卓に新聞紙を敷いた。
その中、目に留まった一枚を取り分けた。
朝日新聞夕刊の「美の履歴書」は東山魁夷の『年暮る』。
これを敷く訳にはいかなかった。
夫婦で横並びに座って鍋をつつき、絵に描かれた大晦日の京都を眺めた。
コロナで時間感覚が途切れたからだろう。
今年は季節感が薄く、内を覗けば空白だらけといった感が否めない。
12月終盤に差し掛かっても、年の瀬だと頭では分かるが体感が伴わない。
ところが、一枚の絵によって感覚が一変した。
しみじみとした情感を湛えた『年暮る』が、見れば見るほど深く静かで美しく、内に巣食った一年の空白を見る間に温かなもので満たしていった。
年の瀬は鍋。
絵によって、てっちりの味わいが数倍増しになった。