KORANIKATARU

子らに語る時々日記

他人の不幸(その2)

後は寝るだけだ。
男三人並んでベッドに仰向け寝転がり、本を読む。
我ら共通の就寝儀礼である。

長男が二男越し私の本をのぞき込む。
私が読むのは角田光代の「森に眠る魚」。
ここ数年忙し過ぎて読み通した小説は数えるばかりであり、それもつかえつかえなのだが、これは一気に読み進んでいる。

他人の不幸を強く願う呪詛の発生過程が実に見事に描かれていて、状況設定も身近なものだから目が離せなくなってゆく。

他者との比較だけが全てという狭い世界に足括られそこから抜け出せないとなれば、幸か不幸かどちらか二者択一の終わりのないシーソーゲームである。
相手が上がれば、こっちが下がる。
相手が下がれば、こっちが上がる。

ただでさえ面白くなさそうだが、粘性の感情を増加させながら続くのだとしたら、これは苦しい消耗戦に違いない。

どちらかが先に毒を抜く必要があるだろう。

目の前の相手に焦点を合わせ過ぎないよう心がける。

誰にとっても幸福は常に手が届くその先にあるようなものであり、その届き具合を比べ合っても、手が届く訳ではない。
そうと分かれば、シーソーなんて乗っている場合ではないと気づけるのではないだろうか。

先日、隣町芦屋に住む利発聡明な従姉妹が二男らとUSJで遊んだ後で泊まりにきた。
階下で子らの会話が聞こえてくる。
鷲尾先生が家に来たことについて話している。

ゴッサムの町に少年少女が愛するバットマンがいるように、尊敬をもって語られる大人があることは、子らにとって大切なことだ。
大人にヒロイズムが不可欠なのは、それが子らにとって多少なりとも体現され継承されるべき尊い精神性だからだろう。

子供達が楽しく会話する場面を思えば、それは微笑ましく、肩の力が抜け、よき人間、よき職業人であろうと、素直に思える何かが作動し始める。

そのような日常のありふれた子らの1コマに注目することも、人のことをちゃんと考えるという第一歩になるのかもしれない。

つづく