1
月曜朝一番。
奈良で用事があった。
直行し業務し終え、そして直帰する。
市内へは向かわずアクセル踏んで大阪を過ぎ神戸線をひた走った。
仕事の続きは家でしようと思い立ったのだった。
万一に備え家でも仕事できるよう環境は整えてある。
仕事柄、パソコンさえあればどこでも作業は可能だ。
加えて電話、FAX、そしてちょっとしたプリンターがあれば、わたしにとっては十分に満たされたオフィスということになる。
家族は留守だ。
リビングに陣取った。
四方のカーテンを開け放つ。
自然光のみで十分な明度である。
そしてピアノ音楽を流す。
ピアノの旋律に乗って光が降り注ぐ。
意識までキラリ明瞭となる。
作成した書類をメールし電話に対応する。
仕事に没頭した後、合間合間、懐古に耽る。
家のハードディスクには昔なつかしの動画が満載だ。
年端もいかない頃の子らの様子に目を細める。
舌足らずな言葉遣いが微笑ましい。
何とも楽しい。
わたしはいま一人だが、常に家族とともにある。
そう実感する。
動画の映し出す過去がいまここへと収斂しここを起点に縦横無尽、未来がわき出すみたいに生起していく。
そのような時間の流れのなかにあることがとても豊かなことのように思える。
2
昨晩は二男と二人だけの夕飯となった。
彼のたっての希望で、駅前の串カツ屋に向かった。
かつてそこにはありがた屋という古くからの居酒屋があった。
ありがた屋が老衰で生命活動を終えるようにして消えてなくなり、生え変わったみたいに串カツ屋が先頃突如姿を現した。
結構な賑わいで、ときには店外で待つ人の姿まで見られる。
おいしいに違いない。
二男はその存在が気になって仕方なかった。
さすがに日曜日、夕刻早い時間に訪れたにも関わらずすでに満席。
予約していて正解であった。
きちんと調理しているからであろう。
料理が出るまでそこそこ待たされる。
が、待つだけの甲斐はあって、わりかし旨い。
ボリュームも満点だ。
串カツをたらふく食べた後、仕上げにと二男はご飯ものを注文したのであるが、これがどでかく、カロリーにして万の桁に届くのではと思わせるようなど迫力であった。
さしもの大食漢も途中で音を上げ、武士が刀を置くみたいに参ったと箸を置いた。
それで〆て七千円ほど。
激安と言うしかない。
賑わって当然だろう。
3
二男と差し向かい食事しつつ、わたしは左右の家族連れの様子を眺め会話に耳を澄ます。
日曜の団らんを絵に描けばこうなる。
父が瓶ビールを飲み、子らがわーいわーいと串カツを頬張り、母がお皿の料理を取り分ける。
もっと食べろと父が言い、わーいわーいと子らが大喜びし、母が目を細める。
そこにあるのは、たまたま通りすがって組成されたような小集団ではない。
互いが唯一無二の存在として結び合わされた運命共同体である。
そう思えば、家族という集合体が神々しいように光り帯びて見えてくる。
かつて孤独であった頃のことを思い出してみる。
虚しいような寂しさは記憶の彼方。
薄暗いような、肌寒いような孤独の手触り感は遠く過ぎ去り、いまや幻のようなものでしかない。
しかし耐え難いようなものであったことだけは確かなことであった。
だからわたしは断言できる。
一人であるより、家族があった方が絶対にいい。
そのことで負う気苦労でさえこれからの道のりを賑やか彩る。
しんと静まり返った暗い道よりはるかにいい。
4
昨夜、二男と二人、テレビを見て過ごした。
時折、春雷が轟き驚いて顔を見合わせる。
しかし「世界の果てまでイッテQ!」があまりにも面白く何事もなかったようにまた大笑いし続けた。
そうこうしているうち、お酒がまわっていつの間にやらわたしはリビングで寝入っていた。
夜中にふと目が覚める。
きちんとわたしに毛布がかけられている。
横で二男が寝息を立てている。
家族あってこその景色である。
わたしは二男の毛布をかけ直す。
しばし眺めてから、安らか眠りの世界へと舞い戻った。