一人で過ごすが、一人ではない。
この夜は、二男が電話を掛けてきた。
わたしの上の妹は東京に嫁いだが、この夫がうちの息子らとよく一緒に遊んでくれる。
昨日、その夫が二男をサウナに連れて行ってくれ、その後で蕎麦をご馳走してくれたという。
日暮里にある一由という店の蕎麦がめちゃくちゃ美味かった、と息子が言う。
おお、そうか、今度はおれも合流しよう。
男衆ならではのそんな話に続いて、今度は大阪の妹から電話があった。
いま妹の娘がオーストラリアに留学している。
写し絵のように姪っ子は妹に似て利発で活発。
その近況が数々の写真とともにもたらされ、実に感慨深く、母が喜ぶニュースばかりであるから母の笑顔も同時に思い浮かんだ。
母の孫らはみな真面目で元気で個性豊か。
そんな粒揃いのいとこに恵まれて、うちの息子らが受ける好作用は計り知れない。
皆が成長するにつれ、そんな実感が増すばかりである。
その昔、母が孫らを率いて大阪城公園で遊ぶときがあった。
家内を当てこすった人物は家内をのみ当てこすったのではなかった。
たまたま家内とその場に居合わせて、泥んこになって遊ぶうちのちびっ子らを見て笑って言った。
みんなぱっとせんな、難民の子みたいや。
そのような話は忘れようにも忘れられず、孫の誰かが話題になるといつも決まって記憶の淵からよみがえる。
外見で人をどうこう言うのは、やはり人間として間違っているだろう。
たいていは不正確な話となって、不正確にとどまらず誰かがそれで傷つくこともあるのであるから、一歩間違えれば誰かを殴ったり蹴ったりするのと同じような話になりかねない。
小さい頃は着飾りもせずぱっとしなかったかもしれないが、幸い母の孫らはみなそれなりに優秀で、内から滲み出る見映えを伴い前途洋々各自の道を突き進んでいる。
短慮軽率な物言いは害をだけ為してやがて発した者へと返っていく。
世のため人のため、誰であれ良い言葉遣いを心がけねばならないだろう。