KORANIKATARU

子らに語る時々日記

ますます生きづらい世に腹くくる


日曜夕刻、まだ明るい家の前の公園で長男と二男がキックの応酬をし走り回っている。
胸すくような打撃音が繰り返され、青い空を背景にラグビーボールが弧を描いて行き交う。
砂地を駆ける足音が小気味いい。

何の因果か、この二人が我が子であり、ここが我が家である。
ここをねぐらに我ら家族は、各自各々、世界と対峙している。

このところ、家が一番いい。
居合わせた家族の誰かと四方山話に花咲かせ晩酌の時間を過ごすことが最大の憩いとなる。

夕食時、友人家族がした旅行の話となり、乗馬の値段を話すと家内が言った。
私ならそのお金で馬券を買う。

馬ひとつとっても、人ぞれぞれ考え方は千千に分かれる。


月曜朝はいつだって物悲しい。
毎日仕事し続けているでの月曜だからと殊更負担増す訳でもない。
それでもそのような心持ちとなるのは、三つ子の魂百まで、身に染み付いた曜日感覚は思った以上に根深いということだろう。

土曜が休日、その体感に慣らされた子供たちは、出だしから枷はめられたようなものかもしれない。

21世紀なのに小中学校の暴力事件発生件数は右肩上がりで増え続け、10年間で2倍にも膨れ上がったという統計数字は、日本において着実に貧困化が進み、街なかやテレビに映る華やかで賑やかな平和な光景とは裏腹の事態がび漫しつつあることを如実に物語っている。
貧困が暴力という影を落とし、不可逆な流れで社会が二つに分断されていく。

大人でもそうだが、子らにとっても相当に腹括らねばならない時代が訪れようとしている。
夢見られた21世紀は、蓋開ければ、おぞましいほどに人類普遍の真理を突きつけるだけだったようだ。
紀元前から変わらぬ生老病死の四苦が手を変え品を変え深まっていく様相である。

幸福に生きる、そのためには相当な見識備え、力を蓄え、仲間を擁さないと難しいということになっていくのだろう。
ただそこにいるだけで「存在する」ことの幸せがしみじみ込み上がり、万一手詰まり行き詰まったとしても、誰か援軍が駆けつける、その域に達するには相当な努力が必要となる。

皆が皆、時代の変転に小突き回され、男子も女子も生きるため常に気を抜けない、それが常態となるだろう。
そんな荒波のなかを生きる、そう思うくらいでちょうどいいのだろう。


日の出の時刻が日に日に早くなる。
明け方5時過ぎには陽の光にありつける。

朝日浴びつつ一日の支度を始める。
今日一日の活力が、太陽から注がれる。

アキ・カウリスマキの「バーテンダー」のように、淡々と一日をスタートさせ徐々に心身を、今日が要求するレベルに上げていく。

活気づくような、なかば怒りにも似たような「噴き出す」状態にまで持っていくには、ここでコーヒーをがぶ飲みすればいい。
押し寄せる懸案の数々、これらストレッサーに立ち向かうには喜怒哀楽のうち役に立つのは課題を擬人化しての「怒り」だけである。

アチョー。

ごくりごくりと数杯流し込む。
準備は整った。


家内から連絡がある。
この日とこの日は仕事を手伝えない。

長男の学校通じたママ友らと幾つか懇親会がある。
何かの部活動みたいに交流が深まっているようだ。
間違いなく喜ばしいことである。
このようにして、長男の縁が家族に広がっていく。

そして、交流の起点は何も長男だけではない。
二男から、あるいは私から、我ら家族の交流は、重層的かつ幾何級数的にその枝葉を広げ網目豊かに充実していく。
家族の縁が立体交差していく様は壮観でさえある。

人の輪のカンブリア大爆発とも言えるだろう。
後先、この流れはとてつもなく大きな意味を持っていた、と振り返られることになるに違いない。


長男も二男も、それら人間関係から好作用を受け、糧を得る。
様々な人物像、その来し方に触れ、価値の土壌が日々鋤き起こされていく。
そのような啓発的な環境のなか、みずからの「自画像」を練磨描くような日々だろう。

子供たちは、向日性の植物のように、お手本となる人物をめざとく見出し、その光を浴びて、ぐんぐん育つ。

太陽レベルの星だらけ、私たちは、人の縁に恵まれ感謝のしようもない。