家内は赤ワイン、わたしはハイボールを飲みながらタブレットで写真を眺める。
サラダとビーフシチューを交互に口に運び、写真について口にし合う。
長男が送ってきた沖縄旅行の写真と二男が送ってきた五島列島の写真が並んで織り混ざるので、ランダムで意識に浮かぶ画像を目にしているような気持ちになってくる。
送迎が必要だったちびっ子の時代はあっと言う間に過ぎ去った。
もはや手はかからず、それどころか二人が二人とも自在にあちこち飛び回り、いつしか手の届かない存在になっていくような気がしてならない。
彼らが訪れた地についてこんな風に家内と眺め入るといった時間はだから将来増えていくのだろう。
一緒に鑑賞できる相棒がいて幸いであった。
わたしたちにとって子らは可愛い存在である。
胸のうち湧く愛情に共感を覚えることができるから、誰か他の人の子も同じように可愛く思える。
それが普通のことだと思っていたが、我が子は可愛いくても、身内であってさえ他の子のことなど知ったことではない、とあからさまにその冷淡を態度で示す人もあるのだと知った。
そんな場合、うちの子らの見切りは早くさっさと撤収し一切近づかないということになって、家族ごと疎遠になっていく。
世界は目の前だけにあるのではなく、あらゆるところに遍在していてすべてから学ぶことができる。
だから疎遠というのは決して最初に前提とすべき事態とは言えないが、幸せに生きるためには随所で生じる選択に注意深くならねばならず、付き合う人も当然、選ばなければならないということになる。
類は友を呼ぶ。
浮きに浮いてチャラチャラした人はそういう仲間で群れを作って互いますますチャラチャラし合い、更に軽薄な感じになって臆面もない。
その一方、世のため人のため地道堅実に研鑽欠かさず、互い敬意を払って助け合いそこに各自の成長を促す揚力が生まれるという人間関係もある。
親として、前者に関わって無為を価値だと勘違いするような人間にはなってもらいたくなく、地味に静かに後者のグループの一角を成してほしいと願う。
真面目な人がいれば周囲も真面目。
それが世界を貫く真実なので、自分の周りにいるのがどんな人間なのか、それによって自身の現状を点検することができる。
東京に住む妹の子はともに大学生であるが、その二人に先日長男は焼肉に連れてもらった。
大阪に住む妹の子はまだ高校生だが、時折、二男は一緒に焼肉を食べる。
そして、長男も二男も素晴らしい友人らに恵まれている。
二人を取り巻くそんな堅実な関係を思うとき、親はただただほっと安堵する。