1
学校からの健康診断便りを見る。
色覚検査希望者は保健室に来てね、と書いてある。
かつては一斉に行われたものであったが、今は限定的にのみ行われているようだ。
列に並んで順番を待つ時の憂鬱な気分は忘れられない。
無数の色が散りばめられた検査帳を覗き込み、見える数字を答える。
気合いを入れるが、見えないものは見えない、もしくは見当違いな数字を答えることになる。
適切ではない数字を答えた後の無言の間、「しくじった」感が漂泊する空白の時間に身を硬める。
色覚異常やね、と毎回告げられるその結論が変わったことはない。
いくら目を擦っても、目を凝らしても、色のドットの奥に隠された数字は私の前に姿を現さないのだった。
2
日常生活で何ら困ったことはないものの、自らの将来に何らかの影を落とすのではないかという予感めいたものはあったので、色覚異常者のための進学就職ガイドブック無料送付といった新聞広告を目にしたときはすぐに取り寄せのハガキを送った。
高校3年になったばかりの頃だった。
送られてきたハンドブックに目を通し目の前の暗度が増し、まさか嘘だろうと更に熟読し視界は闇に包まれた。
あきらめつかず、救いのニュアンスを探して行間まで読み込み、今思えばガイドブックの思惑どおり、私は真っ暗闇の住人となることになった。
色覚異常者に対する大学入学制限や就職差別は鉄壁であり、抜け道などないようなものであった。
一部調査データとして網羅的に掲げられているリストは、想像広げれば他も同様だろうという類推を容易に促し、絶望の嵩が増して前途はますます塞がれる。
でもご安心を、そのガイドブックには、色覚異常は治ります、と書いてあった。
スタップ細胞はあります、というくらいに明快に断言してあった。
信頼のおける眼科で相談したところ、「治るはずがない、治るという性質のものではない」と説明され、要は人の不安を煽って金儲け企む魂胆のガイドブックであると感づきはしたけれど、具体名まで記されたリストについては嘘っぱちだとは思えなかった。
目の前に道を塞ぐ厚い壁があって、壁を生み出す原因の色覚異常は治らない。
手の施しようのない思考の窮地に達した。
塩かけられたナメクジのように脳みそが萎縮するかのような状態。
思考停止に陥り、「前を向けない」ネガティブな精神状態で過ごす日々が始まった。
3
ケツの青い当時の私は、色覚異常者の入学を認めないとする大学や制限される職種の関係機関などの一次情報源に対し真偽確かめるため片っ端から電話する、という今では当たり前にする情報収集をこなすガッツも思慮もない情報弱者であった。
親に相談するも、色が分からんでもできる仕事あるやろ、といった身も蓋もない反応であった。
五体あればどうにでもなる、色くらいでほちゃほちゃ言うなという迫力を前に返す言葉がなかった。
悩んだ末、学校の進路担当責任者に思い切って相談してみた。
気軽に胸のうちを打ち明けられるような学校ではなかったのかもしれない。
逡巡に逡巡を重ね、もしかしたら力になってくれるかもしれないと、職員室に向かった。
あかんとこもあるし、いけるところもあるから一概には言えない。
一般的に色覚異常が駄目でも、やれる研究職もあったり、ケースバイケースやで。
曇り加減がひとかけらも晴れることのない助言のようなものを得ただけであった。
前を向けない、という状態が一番つらい。
前を見据えて、思いっきり頑張りたい、そのようでありたいと願っても、そうなろうとする先から、「登っても登っても、この梯子は外されるのだろうか」という不安がつきまとって離れない。
4
当時の煩悶はいったい何だったのだろう。
いま、私は何不自由なく信号守ってクルマを運転し、仕事についてはお色気はもちろん色など一切関係のない仕事で生計をたてている。
色覚異常という問題を解決した訳ではなく、いつの間にか問題などなくなってしまっていた。
色覚異常者を取り巻く社会背景も大きく変わっていく過渡期でもあった。
問題は解決されたのではなく、いつの間にか姿を消しそして忘れ去られた。
もし私が若気の至りでヤケを起こしていたとしたら、将来存在しなくなる問題で身を持ち崩すというシュールな結果を招き寄せていたのかもしれない。
何事も拙速は命取り、目の前の問題は、いくら巨大に見えても放っておけば勝手に消えるということもあるのであった。
解決するばかりが能ではないと言えるだろう。
5
人を選り分けるネガティブ・コードというものがこの世には存在し、これからもそれはなくならない。
おおよそであれ形質や性質が定義される領域においては次元や種類を問わず例外なくネガティブ・コードが埋め込まれていく。
そして、このネガティブ・コードが人の思考や感情に大きな影響を与える。
中には悪用し、人心を支配する者もある。
たいていのネガティブ・コードは魂胆ある者が発するノイズにしか過ぎないので相手する値打ちもない。
しかし、ネガティブ・コードに立ち塞がられた場合、ネガティブ・コードによる理不尽に見舞われたとき、それが時間が経てば消滅するといった呑気なものではない場合、どうすればいいのだろうか。
例えば、色覚異常者は大学に入れない、色覚異常者は結婚が許されない、といったことが当たり前の社会で、そのような不条理に直面したとき、どうするか、ということだ。
若い頃の私であれば、意気消沈しグズグズ悩んで尻すぼみ残り火のようにくすぶった人生を送ったのかもしれない。
しかし、このような状況におかれてさえ、それがどうした、どうってことないと「前を向ける」何かを発見するべきなのだろうと思う。
その不条理をひっくり返すことでもいいだろうし、そんな不条理が問題とならない新天地を求めるのでもいい。
そのような不条理がある世であると知った上で、それでも前を向くのだ、と君たちには胸に刻んでおいてもらいたい。
6
子宝はともに男子であり、二人とも正常な色覚なので、私の中の伴性劣性遺伝子は行き先を失い、私の中で潰えることになる。
もし女子を授かっていれば気の毒に彼女は私に似てブスなだけでなく色覚異常の保因者となるところであった。
敷衍すれば、色覚異常だけでなく私についてまわる忌々しい要素は全て受精の際に濾過され、ピカピカの部分だけが子に伝わったとのだと想像できる。
先日、すべては色あせ満ちれば欠けてやがては余白化すると書いた。
楽しいことであれ嬉しいことであれそのうち何でもないようなこととなり飽いてくる。
しかし、子育てにおいてだけは「余白化現象」はあてはまらないようだ。
観客席から子らの場面場面を手に汗握り固唾飲んで見守る。
自分のことなどどうでもよくなっていく。
この日記を通じ君たちに伝えたいことを書く。
書けば書くほど、言い残すことが少なくなっていく。
つまり思い残すことが減っていく。
最後にはきれいさっぱり気持ちいいくらいに空っぽになれるような気がして実に実に清々しい。