1
始発の駅に向かいながら甲子園口駅前のローソンストア100で朝刊を買う。
同様に駅に向かうおじさんが私より先、産経新聞を手に取った。
これで産経新聞は売り切れだ。
毎日新聞もない。
私は読売新聞を手に取り、おじさんに続いてレジに並ぶ。
順番を待ちつつ見出しに目をやると、前日の日付となっている。
奇異な感覚に捉えられる。
朝の寝覚めである。
日付の感覚が狂いそうになるが、何とか正気を保った。
これは前日の朝刊だ。
2
新聞の入れ替えがなされていないだけのことのようだ。
だから朝一番なのに、新聞の数自体が少なかった。
おじさんは、レジでお金を払い、駅のホームでことの真実に気づく。
前日の新聞を買わされた憤りは如何ばかりか。
本当に一日前に戻ることができるなら、新聞代など安いものだが、昨日読んだのと同じ内容の新聞なんて紙面めくる気にもなれないだろう。
3
御嶽山噴火により命を落とされた方々の身元が次々と判明していくなか、残されたご家族が在りし日について語り、それが報道される。
誰一人として、その日その場で絶命するなど思いもしなかったであろう。
素晴らしい秋の一日を満喫し、そして平穏無事に人生は続き、やがてくるクリスマスを家族と過ごし、元旦を迎えるはずだった。
しかし、人生はそこで潰えた。
当人がクリスマスや元旦の当事者でなくなるだけでなく、近親者はもう晴れがましい思いでそれら行事を愛でることができなくなった。
順番通りではない死の痛切は堪えようがない。
この先ずっと、心は痛みに苛まれ続ける。
もし一日前に戻ることができるなら。
噴火の一日前に戻ることができるなら、在りし日のままの姿を抱きしめ引き止めることができる。
しかし、時間は前に向かって進むばかりであり、潰えた命はもう戻らない。
4
山だけでなく、海や川でも毎年必ず少なくない方々が不慮の事故により亡くなられる。
自然には死がつきまとう。
自然の側からすればちょいと寝返り打つ程度のことであっても、人間はひとたまりもない。
だから心しなければならない。
自然の側に入っていけば、ぴったり真横に張り付いて死が隣り合わせとなる。
海や山や川などが人のことを考えてくれたり、手加減してくれたりすることはない。
何かあっても何とかなるだろうという楽観主義の通用する領域ではないのである。
「アイガー北壁」という映画がある。
屈強なドイツ青年二人が人類初の偉業としてアイガー北壁を踏破せんと挑む。
その史実に基づいた作品である。
結末は無残だ。
あと一歩のところ。
全てが絶たれる。
自然の無慈悲を思い知らされる。
自然に臨む際は、不測の出来事に捉えられることがある知らねばならない。
あっと思った時には、冗談やドッキリなどではなく、本当に取り返しのつかない事態に呑み込まれてしまうのである。