今朝の産経抄。
1+1という足し算型の人間関係であれば片方が不在になっても1が残る。
が、掛け算型の間柄の場合、片方が失われれば世界は0になる。
そんな話を読んでいろいろ想像してしまい胸が締めつけられるような思いとなった。
この日記は、子らに語る時々日記。
当然わたしの場合は掛け算型で、よもやのことがあったとすれば全部白紙で0になる。
日曜の朝、窓から吹き込む風がひんやりしていて心地いい。
夏の疲労が慰撫されるかのよう。
カーテンとともに部屋に差し込む朝の日差しが静かに揺れて、休日ののんびり感が倍加していく。
ゆっくりと近づいてくる秋の到来が待ち遠しい。
食欲の秋、読書の秋、そして映画の秋である。
リビングでひとり映画を観ることにした。
『ツリー・オブ・ライフ』。
パルムドール受賞とのことで借りてあったが、予備知識なく内容も知らず見始めた。
子がなくなる話だとは知らなかった。
この手の話はできれば避けたいところであったが、すでに話は進んでもう目が離せない。
両親はどのようにしてその死を受容していくのだろうか。
在りし日の日常が描かれ、そこに宇宙や雲海、火山、海や川の流水、炎、数々の光、血流、細胞といったマクロとミクロを行き来するような映像群が差し挟まれる。
映像を目にしつつ不思議な感覚にとらわれていく。
日頃、現実の上っ面にばかり焦点合わせる視力の緊張が解きほぐされる。
それら美しい映像が連鎖することで、観る者の視線は眼前の具体的実体の向こう側、その高みにある抽象へと誘われることになる。
示唆されるのは創造主の存在だ。
人という存在の不思議と世界の美しさにひたり、すべてひっくるめて得体が知れないといった畏怖の念も湧いて出てくる。
だから終盤、海辺のシーンに納得感もって感動を覚えるのも自然なことだろう。
時間を超え、すべての人がその海辺にいる。
もちろん、なくなった子もそこにいる。
数々の映像の連鎖をたどれば、そんな場所があってもなんら不思議はない。
両親は彼を強く抱きしめ、そして天へと送り出す。
痛切な喪失感は拭えないが、彼らはまた会える、そんな余韻がラストに残った。
0であるはずがない。
この映画を見ればそんな風に思えてくる。
日頃、ニヒルを気取っていられるのは、行間からこぼれ落ちていく大事な何かに目を閉ざしているからであり、わたしたちが無知で極小な存在であることに変わりはない。
多少は謙虚になって、向こう側の抽象に思いを向けてみる。
まるっきりの0にはならぬよう、そういう過ごし方をするのもたまには必要なことだろう。