KORANIKATARU

子らに語る時々日記

カツカツの度がますます増す世を迎えるにあたって


肌寒さが幾分和らいだ週半ば、市内各所を電車で巡る。
電車がいいのは本が読めること。

たまに運転しながら漫画読んでいるお兄さんをみかけるが天下の公道、あんた一人の危なっかしさが他者をも巻き込むかもしれないそのリスクをどうか想像してもらいたい。

漫画世界に浸った挙句の危険運転で巻き添え食ったとしたら漫画の一コマどころではない、浮かばれない。


電車に揺られ、木暮太一氏の「超入門資本論」に引き続き「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?」のページを繰る。

面白すぎて止められず、寸暇も惜しんで読み進めることになった。

先日、お金持ちの収入についてこの日記に書いたばかりであった。

相当の実入りがあっても、細かく検証すればほとんど誰もがカツカツでしかないと推論したのであったが、これら書物で、根本的なレベルでその裏付けを得たと思えた。

同書にてズバリ端的喝破されている。
どれだけ一生懸命働いたところで暮らすに足る以上のお金などもらえない。

暮らしがカツカツなのは経済メカニズムによる原理的な帰結なのであって、個人の力でどうこうできる類のものではないということである。

頑張ったからどう、成果があったからどう、ということではなく、明日も同様働けるよう、その暮らしを賄う必要額が支給されるだけのことであり、私たちの手にカツカツしか乗らないのは、人知を超えた「経済システムによる決済」だからなのである。

つべこべ言う余地もない。


そのような認識を基本ベースに置いた上で、ではどうすべき、を著者が説く。
「自己内利益」という概念を用い、攻めと守り両方の提案が為される。

私は本に線を引きまくり、ここらのくだりは、真っ黒けとなった。

毎回ゼロから頑張るのではなく同じ労働の資産的価値が増加するよう工夫することで労力あたりの報酬は増加する。
また、精神的な苦痛の軽減を含め必要コストの低減を図ることで、労力あたりの報酬が増加する。

なるほど、このような視点切り口で自らの労働を観察すれば、「自己内利益」増加の打ち手はいくらでも思いつく。

読んで得する本である。
これは必ず、子らにも読ませたい。


そして、仕事帰りの道をとぼとぼと歩きながら思うのであった。

子に勉強させ、「攻め」については長期的プログラムの渦中に放り込んであるはずであるが、「守り」については手薄であったかもしれないと思い至る。

カツカツが全国民を覆う真実なのであれば、「攻め」が無限に功を奏するはずもない。
「守り」についても日頃から鋭敏な意識が形成されるよう働きかけが必要だろう。

何でも買える、選び放題、それどころか、財布の紐をゆるめっ放しでも貯まる一方、だから選ぶ必要もなくあれもこれも何でも手に入る、となるのであれば問題は生じないが、そんなお花畑思考でお気楽過ごせる境遇など前提にできるはずがない。

であれば、取捨選択の基準をどう設定するか、優先順位はどうするか、欲望の制御も含めての心の平和の話、すなわち「守り」に注意を向け局面ごとに検証し様々な見解を築いていかねばならない。

それは単に仕事やお金にとどまらない域の話であり、価値観を磨きあげた末の思想の次元の問題と言える。

やがて訪れるますますカツカツの世界。
そこまで見越して、子に何が残せるか。
先立つものが心もとないとなれば、せめて精神的な態度くらいについては教えてあげねばならないだろう。