駅に駆け込む間際、本屋に寄って物色する。
電車に乗って時間を流れ歩く際には必ず書物が必要だ。
ざっと新刊本の書棚を眺める。
苫米地英人さん著の「思考停止という病」というタイトルに目が引き寄せられる。
手にとってざっとページを繰る。
小一時間で読めそうだ。
そのままレジを済ませホームへと急ぐ。
乗るのは普通電車。
ゆっくりとした時間を得るため突っ走る。
この電車を逃せば快速に乗らざるを得なくなる。
そうなると、座れないし、せわしない。
移動においては「間」があった方がいい。
この場所からあの場所へと渡る時間、わたしはひととき何者でもない者、解放された存在になれる。
それが居心地いいので、せめてその「間」については、緩やか味わって過ごしたい。
普通電車はガラ空きだ。
ゆったりとした気分で腰を下ろし買いたての本のページをめくっていく。
本があるのとないのとでは時間の充溢度合いが雲泥の差である。
ものを考える上で参考になるような切り口やキーワードがいくつも得られる。
軽快に繰り出される語りもまた面白い。
ゴールのない人には思考がない。
思考がないから前へ倣えとなり、思考がないから勉強も足りず知識がない。
だからゴールがない人の話は、つまらない。
自らはどうであろうかと反芻しつつ、自身のゴールについて思い浮かべる。
単に電車にのって揺られるだけであれば、ゴールのことなど頭をよぎりさえしなかったであろう。
本は無味な時間を豊穣なものへと変貌させる。
生命現象はランダムウォークといった話も実に興味深い。
ランダムが生命の本質なのであれば、世には意思決定において考えても仕方ないことがあって当然という当たり前に気付かされて、まさに目から鱗、肩の力が抜けなんだか清々しくなってくる。
そして、わたしにとって学び最大の秀逸は最終章。
著者はここで「職業」を定義し、お金と職業を切り分けるよう提言する。
お金は要は単なるファイナンスのことであり預金残高に記された数値であって、人生をかけるような対象ではない。
それに人生をかけるとしたら、資本主義社会に洗脳されすぎているといったようなものであり、お金に自由を奪われた奴隷のようなものである。
職業は人それぞれの思いや価値観と結びつくものであって、そこに金銭的評価がでかい顔して出る幕はない。
誰にでもできるようなやりがいのない仕事に明け暮れ、上司の覚え愛でたくなることが最大のテーマであるような、まるで男芸者のごとくのゴマすり人生に埋没するのではなく、自身が生涯をかけてやり続けたいと思える職業を仕事とは別途であっても見出すべきである。
わたしは四十すぎにしてその考え方に唸らされ、自身の足元を見つめるような思いとなった。
仕事と趣味は別、といったような大人の言葉はこれまでさんざん聞いてきた。
この構図では趣味の肩身は果てしなく狭い。
著者は、趣味を格上げして職業と呼ぶ。
仕事は単なるファイナンスであり、職業こそがまさに人生の証とも言える固有の本業だと位置づけた。
わたしは、自身固有の「職業」をいくつも思い浮かべる。
人生この先、まだまだ長い。
やれることは山ほどもあるはずだ。
なんだかとても楽しいような昂ぶった気持ちになってくる。
たった小一時間。
読書の威力は凄まじい。