KORANIKATARU

子らに語る時々日記

「礼」について学んだ夜

今月に入って夜は自室で読書し過ごすようになった。
たまたま10月の初日に資料の読み込みがあって晩酌をスキップし、それで長年の習慣が変化した。

夜、そこには豊穣な時間が埋蔵されていた。
やや痛恨といった感じで、わたしは思い知らされた。

何ら代わり映えのしない、あとで思い出しても前後どちらでも構わないような、もっと言えば記憶するにも値しないどうでもいい時間を長年積み重ねてしまったのではないか、そう思ったのだった。

仕事を終えてやれやれと脱力し、あとはお酒飲んで半眠りのようなていで、どれだけの時間をおぼろに過ごしてしまったことだろう。
時間を廃棄していたようなものである。

残りせいぜい30年ちょっとくらいの人生であろう。
一日の背を見送る夜の時間をもっと大事にしていきたい、いまそのように考えている。

お酒を飲むなら友人と街へ繰り出し楽しく語らい、家で過ごすなら子と話し込むなり本を読むなり映画を見るなりして過ごしたい。

そうそう、あの日あの夜は、こうだった。
そんな風に記憶に残る時間にしていきたいと思う。

連休最終日、夕飯をそそくさ済ませ、自室にこもって本を読み始めた。
この夜、対峙したのは「ハーバードの人生が変わる東洋哲学」(早川書房)だった。

あらゆる分野で古びた知が書き換えられ、大学については文系学部不要論まで議論される昨今である。
いま孔子をはじめとする東洋哲学開祖の言葉がどれほどの意味を持つのだろうか。

そう思って手に取って、孔子について書かれた最初の章のページをめくる。
数ページでその普遍性が諒解でき、巨大な賢哲が残した教えの包容力に跪拝するような思いとなった。

よくよく考えれば孔子の影響力は現代日本の時間の最先端までを通貫している。
先祖供養やお墓に対する考え方一つとっても儒教の教えが色濃く反映されている。

未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。
その言葉通り、孔子は怪力乱神を語らぬ人物であった。

先祖供養の重要性を説いた孔子ではあったが自身は霊や死後の世界を字義どおりに信じていた訳ではないようだ。
死者の供養は死者のためではなく、残された生者の役割の整理、秩序の回復に有効であると考えたからおろそかにすべきではないと説いたのだった。

きわめて合理的だ。

また、孔子が言う「礼」についても、無知なわたしは年長者を敬うべしという道徳的な話だと思っていたが、これまたわたしの思慮が浅すぎた。

「礼」とは、人間関係を円滑にするための「いかにもな」振る舞いのことであり、局面局面でする他者への配慮であるという。
極端に言い換えれば、罪のないウソとも言えるだろう。
単純に言えば、まずい料理であっても、美味しいと喜ぶようなことである。

わたしたちは複雑でわずらわしい現実世界に置かれている。
そこは、単純な倫理的、道徳的な枠組みで収まるような場所ではない。
そのなかで、未熟な反応に留まるのでは有害な感情が固定化してしまう。

他者の気持ちを汲み、いま何が起きているのかを把握し、のぞましい結末へと導くにはどうすべきなのか、わたしたちは常に気にかけ、判断する力を養っていかねばならない。

つまりは、それが「礼」である。
「礼」を通じてこそ、自らが磨かれ他者がより良い存在となり、新しい世界の理念が実現され得る。

そして「礼」の実践の場が日常だ。
人生は日常にあり、日常のなかでのみ素晴らしい世界を築くことができる。

例えば、反りが合わない相手と向かい合ったときなど「礼」のかっこうの出番となる。
どれほど不快で理不尽な態度で感情を逆なでされたとしても、決して反射的な対応で返してはならない。

自分の反応パターンを心得た上で、相手が置かれた状況や心理に意識を集中し細部に目を凝らし、対応や言葉遣いについて適切な判断を重ねていかねばならない。

どうすれば相手の良い部分を引き出すことができるのか、目的はそこにある。
嫌な相手だと断定したところで、その嫌な部分が不変不動であるはずがない。

良い部分が引き出せれば、型にはまった不毛なコミュニケーションから抜け出すことができるかもしれない。

ほんの小さな、能動的な思慮によって相手は変わり得て、ひいては世界も変わり得る。

本書を読んで、孔子の述べんとすることが少しは理解できたような気がした。
まさに、実用の教えであり、実践のすすめ。
時代遅れどころか、何度でも学び直すべき内容であると言えるだろう。

さあ、今日からは「礼」である。
身近なところからはじめよう。

家族に対し友人に対し隣近所に対し、そして見知らぬ人に対しても。
「礼」が世界を覆えば、まずはさしあたり見苦しいような感情のどつき合いなど目にすることもなくなっていくだろう。