KORANIKATARU

子らに語る時々日記

マウンドのエースを心に思う

もしそんなことが起これば恐ろしい。
そう潜在的に恐怖する事柄を不意に聞かされれば、一瞬パニックになって思考停止に陥ったとしても不思議はない。

急に電話がかかってくる。

お宅のご主人がどうこうなった。
お宅のお子様がこうでああで。

そう告げられれば、降り掛かった災難の重さに神経参って崩れ落ちそうになるかもしれない。
だから赤の他人が本人を装ったとしても動転してしまって気づかないということもあり得るだろう。

そうして目の前が真っ暗になったとき、一筋の光を見せられる。

お金があれば穏便に解決できる。

取り返しのつかないような災難をそれで免れるのであるから、奈落の底に垂らされた糸のようなもの。
迷わずその糸にすがって、ほっと安堵さえすることだろう。

先日のこと。
おれおれ詐欺に引っかかった人の話を聞いて、油断も隙もあったものではないと肝が冷えた。

誰だって慄きのツボにはまれば、呆気なく思考停止となり得る。

思考停止となってその状況に恐怖を抱けば、窮地を脱したい一心で、電話の向こうに余計な情報まで無意識裡に提供し、その情報の対流によって更に強固に相手の話を信用してしまう。
そういった無防備の悪循環にまで陥りかねない。

そしてもし、電話に応対し被害にあったのがたとえば自分の身内だったらどう思うのだろう。

想像はそのように身内の話へと置き換わっていく。

不用心にも迂闊にも、まんまと一杯食わされ、身内が虎の子のお金を失ったとしたら。
想像するだけでへたり込みそうになる。

失望の度は半端なく、怒りに火がつき、なんてバカなんだと身内に対し口走ってしまうかもしれない。

ここまで考え、思考は日常の域に接続していく。

身内をなじったところで、失われたものはもう戻ってこない。

多かれ少なかれ、人は日常的に不覚取る。
お金で言えば落とすことも失くすことも、つまらぬ出費で散財してしまうこともある。

そういったことは、お金に限らず起こり得る。

だからそれをどう乗り越えていくのか、そういった心の持ちようの方がより重要な話となってくる。

マウンドに独り立つエースのことを思い浮かべる。

力投虚しく、味方のエラーで窮地に立たされる。
心は千々に乱れ自棄になりそうになるが堪えておくびにも出さない。
何食わぬ顔、涼しい顔して持ちこたえる。

泣こうが喚こうがどうにもならない。
ジタバタすれば事態は悪化するばかり。

起こったことは仕方がない。
これ以上の悪化を防ぐことに神経を集中するのみ。

そうしなければ流れは変わらない。

世を渡る自身の姿は、大船の船長といったものからは程遠く、絶えず波風風雨に翻弄されるちっぽけなイカダの漕ぎ手のようなもの。

それでも、マウンドのエースを心に思って、エースの在り方を恃みとする。

イカダの漕ぎ手である。
気の塞ぐことなどしょっちゅうでその度頭を抱えて絶句する。
が、わたしがこのイカダのエース。

エースなのだから、何があろうと投げ抜くのが当たり前。
そう言い聞かせ、自身を鼓舞するバレンタインデーである。