KORANIKATARU

子らに語る時々日記

A面とB面


地球温暖化の影響でヒマラヤの氷が融解しつつあるという。
氷河湖が決壊しその土石流で麓の村が押し流され、村人の身体の各パーツがバラバラに散乱する現場の凄惨について野口健podcastで語っていた。

丁度自宅に着き暑さでのぼせるがクーラーのリモコンが見当たらない。
苛立ちが募る前に先の話を思い出し、暑さをやり過ごすと決めた。

汗が流れるのも構わずにビールの栓を開け用意された食事をチンチンに熱して平らげていく。

ふと窓の前に佇むリモコンと目が合う。

無意識のうちに手が伸びスイッチを入れ風力を強とした。

世界のママ達の音量を下げるリモコンを発明すればノーベル平和賞ものだと語った長男の友人の話を思い出す。


野口健は少年の頃、外交官の父に言われたという。
物事にはA面とB面がある。
本質はB面に目を凝らさなければ見えてこない。

B面に焦点を当て彼が世界をまたにかけものした写真集「Into the World」に興味が湧いてくる。
夏の旅行に携える一冊としよう。
子らと見て感想を述べ合うことにする。

podcast野口健が語ったなかでレイテでの遺骨収集の話がもっとも印象深かった。
日本兵の遺骨収集をしていてあることに気付いた。
戦地にてもはや逃げ場なく死を覚悟したとき、彼らはどこで最期を迎えるのか。

視界を阻むものがなく、視線の先はるか遠くに日本を臨むことができる洞窟などで実に多くのご遺骨が発見されるという。

心から手を合わせたい気持ちとなる話である。


A面とB面という切り口は複眼的に物事を捉える上でとても有用なキーワードとして機能しそうだ。

テレビ的な表層を映し出すA面的日常に慣れ過ぎてしまうと、その背後で捨象されるB面的実像に無感覚になる、といった具合に自らの盲点に意識的になれる。

野口健という人物が語るA面とB面という言葉はオモテとウラといった使い古された対比よりはるかに強い思考を促す語のように感じられる。


日曜の午後、炎熱に身を任せるように二号線を歩いていた。
信用金庫のキャッシュディスペンサーでお金をおろした主婦が、二号線を横断しまっすぐパチンコ店へ向かう。

ヒマを持て余した主婦が時間潰しにパチンコで遊ぶ、というありきたりな図である。
しかし一歩踏み込んで捉えれば、少額とは言え手数料払ってまでお金をおろし、何を買うでもなく日曜の午後に主婦がパチンコにお金を突っ込むということの奇異不自然さが立ち昇ってくる。

確率的に考えれば、いま信用金庫でおろしたお金は全額戻らないと見通すのがまともな見識だろう。
仕事でヘトヘトの夫におかずでも買うなり、子供達のおやつでも買ってあげるなりした方がはるかにマシで有用なお金の使い方だ。

ここらでは、パチンコくらいで目くじら立てる方がおかしい、勝ったら発泡酒ではなく本物のビールが飲めるではないか、武運を皆で祈ろう、といった程度の話なのかもしれない。

私自身、パチンコ自体が悪いと思っているわけではない。
ある種の人たちが有しその扱いに手を焼くギャンブル性向をほどよくガス抜きする上で積極的にその意義を認められてもいい存在だ思う。

だんだん日曜午後に主婦がパチンコするのも大して害のないほんの息抜き程度のこと人の自由でありケチつけることではないとも思えてくる。

いろいろと考えアングルをひいていくと、世の中にはオモテとウラがあってそれらが相対的なものとして並び立ち、人それぞれ人生いろいろどっちでもいいではないか、といった意見の相違に基づく無機質的な対の構図だけが浮かんで残る。

B面に目を凝らすというのは、通りすがりが遠目にその構造を観察するより一歩すすんで対象に感情移入し、当事者として価値評価まで突き詰めて考えるということなのだろう。

そうなると、人は人、私は私という突き放して見る立場ではおられず、何らかの行動が喚起されるかもしれない。
パチンコ主婦をも我が身内のように捉えて考え、おい、おかん、何してるねん、お金をおもちゃにしたらかんやろ、その金捨てるんか、と腕つかまえて質す語調含みの関与の芽が形成される。

人に影響を与え得るのがどちらか考えるまでもない。


夏休み、何とか3泊分の宿を確保した。
それまでに仕事が捗るよう粛々と過ごすのみである。

そして今日は33期の夏会。
15名ほどの集まりだろうか。

近頃相当に疲労困憊気味である。
格好のエネルギー補充のチャンス。

皆の気力をただでたっぷりもらい受け無断で使わせてもらうことにする。